シロ

 春の月が、落ちそうなほどに近い。
 所々で、小さく鳴く虫の音階が、シロの耳に、心地よく入ってくる。
 時折、耳が小さく動くのは危険を嗅ぎ取ろうとする本能であろう。
(いや、いい心地だ)
 人間でいう所の、五十の坂を少し上がったシロにとって、四肢の力は多少弱まっても、まだまだ機敏に動ける。
 静寂が破られた。
「な、何だその方らは」
 主人である生田多門の慄いた叫び声が聞こえる。
「生田多門。天誅である」
 対する声はやけに若い。しばらく、人間達の暴れまわる大きな騒音が聞こえる。シロは近づこうとするが、大きな音が聞こえる度に、警戒する。
 暫くして、障子に大きな血飛沫がついた。
「てこずらせおって」
「いくぞ」
 襲撃者達が立ち去ろうとした。シロはそれを追いかけた。
 シロは大きく唸って、全身の毛を逆立てた。
「なんだ、どこの犬だ」
「多門の家の犬だ。ほうっておけ」
 去ろうとする襲撃者の袴の裾目掛けて、シロは飛びついた。
「なんだ。小癪な」
 襲撃者の一人が振りほどこうとするが、シロの顎は頑丈で、滅多な事では外れないのである。
 襲撃者が、きらり、と刀を抜いて、シロ目掛けて振り下ろした。シロはすんでのところで袴を引きちぎって難を逃れた。
「くそ」
「行くぞ」
 促されて、襲撃者たちはその場を去った。
(ご主人様)
 袴の裾を咥えたまま、シロは主人である、館林松平家家老、生田多門の所に戻った。
 妻女は既に絶命していたが、多門当人だけは、まだ息はあった。が、それは明らかに通常のそれとは違う。
「シ、シロ。……」
 忠犬の姿を見て、多門は安心した様子であったが、
「む。……無念だ」
 といって、シロの顔とといわず体といわず、まるで魂を刷り込ませるようにして触っていく。シロの体には刻印されたような血痕がついた。戦化粧のように、シロの差し毛のない白い体がまだらになっていった。
 程なくして、多門は絶命した。暫くシロは無念を鎮撫するように多門の顔を舐め続けた。

 城下の人の動きが慌しい。
 シロの主人である生田多門が横死を遂げたからであるのだが、シロにはその重大性が理解できるわけがなく、人の通りとは逆に、城下からとぼとぼと離れていっている。
『おう、シロよ』
 声がするので、引きちぎった袴の裾を咥えたまま、顔を上げてみる。
『ベコか』
 シロは例の布を地面に置いて、前足で踏んで飛ばされないようにした。
『どしたい、しけた面しやがって』
 ベコは、シロとは対照的な雑種の犬である。全身が茶色の毛で覆われているからであろうか、皆からベコと呼ばれている、野良犬である。
『そういや、ご主人さまはどうしたんだ』
『それがよ、誰かに襲われちまって』
『しんじゃったのか』
 シロは鼻を哀しく鳴らして、答えた。傍から見れば、犬が吼えあっているに過ぎない光景なのだが、当人達は極めて真面目に語り合っているのである。
『誰がやったのか分かってるのか』
『それがわからねえんだが、これがそいつらのもんだ』
 といって再び例の布を加えると、ベコがその匂いを嗅ぎに、鼻の頭をくっつけた。
『なんだか、きたねえにおいだな』
『だが、これしかないんだよ』
『お前のご主人さまはいい人間だったからな。野良犬の俺を蹴飛ばす事もしなかったし。……分かった。ちょっと顔かせ』
 ベコはそういうなり、顔で合図を送ると、シロはベコの後についていった。
 ベコは城下から離れた人気のない神社の境内下を住処としている。無論、そこの宮司は知らぬわけがなく、時折餌まで与えて事実上の飼い主になっていた。
 そのベコが、懇意にしている犬達、およそ百匹を境内前に呼び寄せた。
 整然と並ぶ犬達。その姿はまるで軍隊のように列を成している。
『大変な事が起きた』
 ベコはいきなり切り出した。
『どうしたんです、親分』
 子分の一人であるブチが応じた。
『実はな、こちらにいるシロの』
 犬達は一斉にシロの姿を見て驚いた。ことにシロを良く知っている犬達の驚きようは、少し筆では語り難いほどであった。
『ご主人さまが誰かに襲われたようだ。今日、人間達があの大きな小屋に』
 小屋とは、城のことを指すらしい。
『向かっていったのは、知っているな。もしかするとだ、シロのご主人さまと何か関係があるのかもしれん。俺たち犬にとって、人間達がどういうイザコザを起こそうが、知った事ではない。だが、シロのご主人さまには世話になった連中は何匹かいるだろう。そうでなくとも、日頃からシロに何かと面倒を見てくれた連中もいるはずだ。だから、今回はシロやご主人さまの恩に報いようじゃないか』
『でもベコの兄ぃ。どうするんだ』
『シロの口を見ろ。あの咥えているものは、襲った連中から引きちぎったものだそうだ。皆、そのにおいを頭に叩き込んで、襲った連中を探してやってくれ』
 すると、犬達はシロの前に並ぶと、一匹ずつ例の布のにおいを嗅ぎ取って、小さい頭に叩き込んだ。
『みな、頼むぞ』
 ベコが決意表明の証として遠吠えすると、他の犬たちも一斉に吠え出した。
「うるさいなあ」
 もとより、犬語(そのようなものがあれが、の話であるが)が分かるわけがない宮司は、整然と並んでいる犬たちに驚いたが、シロの姿を見ると、大粒の涙を流していた。
「シロよ、お前も災難であったな。多門様はいいお方であったのに」
 とシロのまだらになった血痕を何度も払い落とそうとしたがこびりついてしまって一向に取れない。
「これは多門様の恨みかもしれんな。……おや、その布は」
 といって宮司が取り上げようとすると、犬たちが一斉に吠え出した。
「な、なんだ、静かにしろ。。……これは、袴の裾か。……そうか、シロはこれを咥えていたのか。シロ、よくやったな」
 といって、宮司はシロの頭を撫でてやる。シロは気持ちよさげに目をつむった。
「とはいえ、このまま放してしまうと飛んでいってしまうな」
 宮司は何かを思いついたようで、家に入っていった。暫くすると、巾着のようなものを持ってきた。
「シロ。それを放しなさい。……こうやってこの中に入れて、首にぶら下げておけば、なくす事もあるまい。これでいい」
 シロの首には例の裾を入れた巾着袋がかけてあった。外れてはいけないように、首輪のようになっている。
「ベコ、余り吼えるなよ」
 宮司はそういって戻っていった。
『人間のくせに気がつくよな』
『まあ、そういうな。あの人間はご主人さまと仲が良かったからな』
 ベコの悪態に、シロが窘める。
『まあいい。話は以上だ。皆、期待して待っているぞ』
 犬たちは三々五々に散っていった。

 シロたちが独自に捜査を始めた頃、つまり多門襲撃事件の翌日であるが、すでに館林城において家臣総登城の触れが出てまわっていた。
 家臣達は急な触れで慌てて正装に着替え、ある者に至っては釣りをしていた時に聞いた為、釣り道具をそっくり近くのものに預けて慌てて家に戻る始末であった。
 家臣凡そ百五十人が城内の大広間において、赤い布を示された闘牛のような猛りを辛うじて抑えて待っている。ほんの少しでも肩が触れそうになれば、それだけでそこかしこで殴り合いが始まるであろうほど、大広間の空気は殺気に満ちていた。
 城主であり、館林の主である松平和泉守が上座の座布団に静かに座ったのは、午の刻であった。
「総登城をかけたのは他でもない。……家老の一人であり、執政を務めていた生田多門が昨夜、何者かによって無念の横死を遂げた」
 家臣は一同、沈黙。
「妻女までが手にかかるという卑劣ぶりであったと聞く。重職を殺した者は、喩えいかなる理由があろうとも、切腹というのが、この館林で定法である。その上で尋ねる」
 と和泉守は一呼吸おいて、
「下手人に告ぐ。良心あらば、すぐにここに出よ。入念に詮議を行う」
 と、歯を何回も鳴らしながら言った。
 無論、誰一人として出る気配がない。家臣達はそれぞれ顔を見合わせて、囁きあっている。
 和泉守もそれを分かっていたようで、やおら立ち上がり、
「では、下手人を徹底的に探索せよ。探索の指揮は、柳田、うぬがとれ」
 といって、傍らにいた柳田格右衛門に命じると、そのまま大広間を出た。
 格右衛門は館林の領内では多門とおなじ家老職についている。齢はすでに六十を越え、家督は子息である兵馬に継がせているが、和泉守たっての願いとあって、家老にそのままとどまっているという、かなり異色な人物である。
「格右衛門様ならば、十分に務まりましょう」
 軽輩の家臣の口々にまで上った。
「そこまで言うのなら、多門への冥土の土産に、老骨に鞭打つとするか」
 格右衛門は長く伸びた眉毛を揺らして笑っていた。
「では、選りすぐって後、殿の御名において臨時の探索方を命じるとする。今日は、これで散会とする」
 家臣達は立候補を申し出るものもあったが、格右衛門はそれには応じず、
「選りすぐるゆえ、その時はよしなに」
 といってあしらってしまうのである。
 家臣達が下城し、大広間には格右衛門だけが一段高い上座の前に座っている。
「やれやれ」
 格右衛門は垂れ下がった眉の下からあたりを見回している。
「おそらく、これが最後のご奉公となろう」
 そう呟くと、まるで退任前の教師のような安らかな顔つきで、大広間を見渡している。
 探索は容易ではないだろう。時間との勝負となれば下手人に優位に働くであろう。
「多門のために断じて逃がしはせぬぞ」
 猫と遊ぶような穏やかな顔の裏には、同輩とその妻女の命を奪った下手人への増大な怒りが渦巻いていた。

 格右衛門は下城すると、すぐに書斎に引きこもった。
 格右衛門の人選は、秘密裏に行われ、その人選の過程は和泉守ですら知らぬほどの徹底ぶりであった。格右衛門は老齢でありながら、家臣達の名前顔はおろか、家族構成、性格、はたまた縁結びの相手の選定に至るまで、おそらく格右衛門の頭には館林の辞書が出来上がっているほどであった。
(さてさて、どうしたものか)
 書斎の文机には、すでに数人の候補を記した巻紙が広がっている。
 格右衛門は腕組みをして、暫く唸っていた。
 書き出していたのは、全員で二十人にも及び、意外なことに、兵馬の名前がないのである。さらにここから絞り込まねばならないのであるが、どうにも絞りきる事が出来ない。
「どれも、一長一短があって、甲乙つけがたいというのはこのことだ」
 格右衛門の中では、おそらくこの人員が考えうる最大限の最適人材と考えている。だが、二十人はいかにも多すぎる。
 春の心地よい風が、書斎の中を遊んでいる。誘われたように、格右衛門はぶらりと表に出た。
 城下では、多門の横死がすでに時の端に追いやられてしまったように、変わらぬ活気である。
 が、一つどうしても気になっている点がある。
(やけに犬が多いではないか)
 それも、五匹や十匹などといった数ではなく、そこかしこに散らばったように犬がどこにでもいる。それだけではなく、犬たちはこぞって人間達のにおいをやたら嗅ぎまわっているという、何とも奇妙な光景である。
 やがて、犬たちは皆、神社の方に向かっている。
「何かあるのか」
 格右衛門は犬の後をつけた。
 犬たちも、格右衛門の姿に気づいていた。
『おい』
 犬の集団のうちの一匹が呼びかけた。
『どうしたんだよ』
『あれ、みてみなよ』
 振り向くと、格右衛門が楽しそうな顔でついてくる。
『なんだい、あれは』
『俺たちの後をついてくるみたいだな』
『人間てのはよほど暇なのかねぇ』
『シロどんのご主人さまが死んじゃったってのに、なんとも薄情なもんだ』
 などと口々に言い合っている。
 格右衛門が予想したとおり、やはり、神社である。神社の境内で、犬が整然と並んでいる。
「面白いものだな」
 といって、格右衛門は暫く様子を見ていると、犬がなにやら話し込んでいるような錯覚に陥りそうになるのである。格右衛門はその犬の塊の中に、見覚えのある犬の姿を見た。シロであった。
「シロではないか、あれは」
「左様でございます」
 振り向くと、宮司であった。
「多門さまが可愛がっておられたシロでございます」
「しかし、あのまだら模様は何だ。まるで、血糊がこびりついているような。以前はあのような姿ではなかったはずだが」
「おそらく、多門さまの血がついたものでござりましょう。私も落そうとしたのですが、どうにも落ちませなんだ。多門さまのご無念がそうさせているのやもしれませんな」
「しかし、あの犬たちの様子は見事なものだ。あれほど整然と並ぶのはわが家中でもできる事ではない」
 格右衛門は思わず感心してしまっている。
「人間もうかうかとしとれんな」
 格右衛門はそういうと、屋敷に戻っていた。
 シロは、格右衛門の後姿を見た。
『あれは』
『どうした、シロ』
 ベコが尋ねる。
『あの後姿は、ご主人さまの知り合いの人間だと思ったのだが』
『じゃ、なんですかい。あれはシロどんの知り合いで』
 先ほどの連中が、シロに尋ねた。
『そうだ。あの人も、ご主人さまと仲が良かった人だ』
『だったら、なんでついてきたんでしょうかね』
『それは分からん。が、俺たちは俺たちの事をやればいい。人間は気にするな』
 シロの言葉に、犬たちも咆哮で応えた。
 一匹ずつ、まるで事件捜査のようにして報告が行われていくが、どれも目ぼしい情報は入ってこず、捜査継続という形になって、また散会となった。

 格右衛門のほうは、というとシロたちの姿を見て発奮したようである。
 その滅多にみない興奮ぶりを、兵馬の妻である、凛子はえらく不思議がっていた。
 その凛子が、茶を持って格右衛門の書斎に現れた。
「お義父上。あまり根を詰めませぬよう」
「わかっておる。だが、シロたちがあれほど懸命になっているのだ。人間もうかうかとしとれんだろう」
「シロ?シロ、といいますと亡くなられた多門様の」
 格右衛門はそうだ、と頷いた。
「生きていたのですか」
「生きてはいたのだが、あの綺麗な差し毛が全くない真っ白の毛に、血糊がついてしまっていてな。……じつに哀しいことだ」
「……そうでしたか。多門様がお風邪をお召しになった折に、見舞いに行ったことがありましたが、シロがそのようなことに」
「ま、そうもいってはおれん。多門の無念を晴らすためにも、この一件はなんとしても、喩え地に這い蹲ることになっても、下手人をひっとらえなければならぬ」
 格右衛門は鼻息を荒くして再び選定作業に入ると、凛子は静かに書斎を出た。
 格右衛門が巻紙に並べてあった候補者達の名前を割るようにして墨で消していく。
 そして、最後に残した六人の名前を見て、
「これでよかろう」
 といっては満足げに頷いた。その巻紙には、
 ―― 馬廻役  青木智之進
 ―― 同役   日下玄十郎
 ―― 足軽頭  小池鉄太郎
 ―― 勘定方  山岡三郎
 ―― 徒士目付 北川仁助
 ―― 右筆   津山俊堂
 と書かれてあった。凛子が湯呑茶碗を下げようと再び書斎に入った時、偶さかその巻紙を見てしまった。
「お義父上、それは?」
「これは、多門の一件において、探索の為に選りすぐったものだ。これ以上の人選はない、とまあ手前味噌ながら自負しておる」
「しかし、旦那さまのお名前がありませぬよ」
「兵馬は、この一件には入れぬことにした。まあ、身内には厳しくしておかぬと、どのような不平が出るやわからぬからな」
 と、格右衛門はいった。
 格右衛門の人選は即座に和泉守に伝えられ、了承された。
 六人は、人知れずとある部屋に呼び出された。
 一同、すぐに生田多門の一件であることを勘付いたようで、各々腕を回したり足を踏み鳴らすなどして、そこに下手人がいればすぐにでも飛びつかんが如き様子で腕鳴らし、歯を鳴らしている。
「皆揃ったか」
 暫くして、格右衛門が部屋に入った。
「御家老。我々は何をすればよろしいのですか」
 格右衛門の肉に食らいつくほど近い距離にまで詰め寄った。
「おぬしらには、多門殿暗殺の下手人を探してほしい」
 という一言を聞くや否や、皆不謹慎にも、小躍りした。
「では早速」
「待て。……智之進、そうやって先走るのが悪い癖であることを、殿に言われておるだろう。他のものも同じだ。……よいか、事は重大である。ゆえに、慎重に慎重を期さねばならぬ。まずは、なぜ多門殿が殺されなければならぬのか。馬廻役であるおぬしは、役目柄多門殿に近い。まず多門殿が何にかかわっていたのか、それを探れ」
 智之進は、小利口そうな顔を引き締めて、承知仕りました、といってすぐに部屋を出た。
「日下も同様であるが、おぬしの場合は鉄太郎と二人になって、事件当夜の出来事を追ってもらいたい。鉄太郎はああ見えて、鼻の利く男だ。もしかすると、何か見つけるかもしれん」
 玄十郎はなにやらぶつくさ言いながら、肩幅の広い背中を揺らして出て行った。鉄太郎は反対に小さな体である。
「三郎」
「は」
「おぬしは、勘定を見てもらいたい」
「ということは、金子が絡んでいるかもしれぬ、と」
「まあ、一応ありとあらゆる方向から見ておかねば、事件の後ろに何が潜んでおるかわからぬからな。それと、仁助は、多門殿が誰か恨まれておったかどうか調べてくれ」
 三郎は落ち着き払ってその場を出、仁助は何度も拳を作っては手のひらに打ち付けながら出て行った。
「俊堂は、この一件をすべて記しておいてくれ」
「では、御家老は何を」
「儂か。儂は、もう一つの探索方を見ておかねばならんでな」
 格右衛門は嬉しそうに話すが、もとよりこの事件チームの中で最年長である俊堂にわかるわけがなく、俊堂は皺だらけの顔に疑問の仮面を当てはめた。

 シロたちの探索がはじまって数日たつと、いくら嗅覚の鋭い犬たちでも苦戦は免れない。
 シロとベコはこの手詰まりを打開せしめんと探索班での主だった犬たちを集めて、会議をもった。
『このままでは、下手人が見つからなくなるな』
 ベコが切り出した。
『だが、我々の証拠といえば、このにおいだけだぞ』
 といって、シロは首を振る。袋が揺れた。
『ここは絞込みをするべきではないのかね』
『オンジ。それはどういうことだ』
 オンジと呼ばれた老犬は見るからに動くのも辛そうであったが、それに応じるように犬の中ではとりわけ知恵袋的存在としてシロたちを補佐している。
『シロのご主人さまを殺したのは、間違いなく人間なのだな』
『そうだ』
『ご主人さまを殺すことができるのは、どういう人間だと思う』
『……なるほど』
 シロの納得に、ほかの犬たちはついていけない。
『つまりだ、ご主人さまを殺した人間は、恐らくご主人さまと同じような者ではないのかね』
 オンジの言いたいのは、つまり下手人は武士である、という人間であるならば当然の帰結であるが、犬たちにとってはまさに目から鱗が落ちる、といった具合のようで、ベコすらそれに気づいていなかった。
『同じような者ってことは、あの長い棒のようなもんを差してる連中か』
 刀のことを言いたいのであろう、仲間の一人がそういった。
『そういうことだ。シロのご主人さまもその長い棒を差していたはずだ。それを目当てに探索を続ければいいだろう』
『さすがオンジだな。われらが知恵袋』
『おだてる暇があるなら、すぐにでも探しに行かんと、わからぬようになるぞ。もう一度、その袋の匂いを嗅いでおけ』
 オンジに言われて、犬たちはシロの首にぶら下がっている袋をもう一度嗅ぐと、各々散っていった。
 ここで特筆すべきは、犬たちの捜査体制が、いわゆるチーム体制になったことである。それまでは各々がバラバラになって捜査をしていたが、事ここに至って方針を変えたのは、賭けであった。
『オンジの言った通りになればよいが』
 シロはオンジの知恵について一目置いているのは間違いないが、この大きな捜査方針の転換が、シロの胸中に何かを去来しているように思えてならないのである。

 一方、おなじような特捜班とでも称すべきであろう、格右衛門の一団は、暗殺された生田多門の周辺、あるいは人間関係といった事件の背景になりうる素材の収集から始まった。
「それで、何かわかったのか」
 格右衛門は初会合以後、初めての集合をかけ、報告をさせた。格右衛門の隣には、津山俊堂が筆を持って待ち構えている。
「さすれば」
 と言って切り出したのは、青木であった。
「実は、多門様は殿よりなにやら秘密裡にお役目を与えられていたそうなのです」
「お役目とな」
「はい。我が館林の出費は年々増加の一途をたどっているのはご承知でございましょう。多門様は元々勘定方から出世をされた方、殿はそこを見込んで、お役目を与えたのではないか、と」
「では、そのお役目とは」
「はっ、それは、館林の借財を返すために、ご身辺を含めた整理を行うことだったそうです」
「整理。つまり、多門殿は館林の財政を少しでも良くするために、不要のものを金に換えることで、借財をなくそうとしたわけか」
 格右衛門は眉間に一本太い線を浮かび上がらせた。
「しかし、多門様は自らに厳しいお方ですが、それを他の者にも求めるところがございましたゆえ、それに耐えかねたものがいても不思議はないか、と」
「なるほどな。つまり、下手人が、その多門殿のやり方に不満を持つ者の仕業であるやもしれぬ、と」
「御意」
「なるほど、相分かった。引き続き、その不満を持つ者を、これはと思うたらならば必ずや書き留め、次に報告せよ」
 二人は、承知仕りました、といって引っ込んだ。
「山岡。先ほどの話を聞いて、なにか思い当たるところはないか」
「それにつきましては、勘定方の中には、えらく負担になった者もいたようで」
「それはまことであるか」
「はっ、それがしはその任を離れておりましたもので、詳しくは存じませぬが、その借財返済の為に奔走していたのは間違いござりませぬ。ところが、実はある方が止めようとして、抗議に来られました」
「抗議とな。それは何者であるか」
 格右衛門の尋ねに、山岡は躊躇している。格右衛門はその真意をくみ取って、
「……兵馬なのだな」
 という言葉に、一同が固まった。
「しかし、兵馬殿がそのような」
「いや、親の儂がいうのもなんだが、倅はちと固いところがある。お役目にはそれくらいが十分であるのだが、それが過ぎれば視野はせまくなるものだ。おぬしらの気持ちはようわかる。が、私情は時に判断を誤らせることになる。私情はさしはさむな」
「なれば、お尋ねいたす。万が一。兵馬殿が下手人であったときは、如何なされますか」
「その時は、兵馬に腹を切らせ、儂が介錯をしてやる。そのうえで、儂も腹を切る」
 という格右衛門の覚悟は、いわゆる口だけの通り一遍でないことが、特捜班の空気の緊張で速やかに伝わった。それは議事録を書いている俊堂の筆先の震えにも表れている。
「が、兵馬については、この柳田格右衛門がいずれ調べ上げる。このことは秘しておいてくれ」
 格右衛門は何度も頭を下げた。
「大将、頭を上げてください。俺たちは、決して兵馬さんを疑ってるわけじゃねえんですよ」
 というのは、足軽頭の小池である。日下もこれに続く。
「市中を見回っていると、やはり多門様のやりように不満を覚えているものも少なくなく、兵馬殿、と断定はできませぬ。このことは、仁助も同意見ですな」
「まことか」
「は、それがしは、徒士目付ゆえ家中の者をつぶさに調べておりましたが、兵馬殿を担ぎ上げようとしている集団がいたことも判明いたしました」
 北川はあくまで折り目を崩さない。
「それは、どこの者かわかるか」
「恐らく、奴の連中かと」
(やっこか)
 一同がため息をついた。
 奴とは、家臣の中で役職に就けぬ次男坊以下が戯れに作った集団である。その多くは日頃の鬱憤を晴らしに町に出かけては町人などに当たり散らし、女とみるや子供であろうとも手籠めにしようとする集団で、いわゆる鼻つまみ者である。
「仁助。奴の連中を徹底的に洗い出せ。その為に、多少の無茶は構わん。この際だ、奴らのために泣かされてきた者たちのためにも、徹底的に洗い出せ」
「承知。では、早速」
 北川はすぐに向かった。
「他の者も引き続き探ってくれ。合流するものはそれでよし。探索はすべておぬしらに任せる」
 そういうと格右衛門はすぐに部屋を出た。

 数日の探索ののち、特捜班は再び集合した。
 格右衛門は二回目の報告を聞いていた。その眉間には、前と同じ太い線が描かれてある。
 その二回目の報告は、格右衛門にとって考えうる中で最も厳しいものであった。
「やはり、兵馬が多門殿のところに行っていたのか」
 小池はばつの悪そうな顔をして、申し訳なさそうにうなずいた。
「恐らくですが、兵馬さんは行っただけで、手にかけるようなことはしちゃおりませんよ」
「そうとは言い切れん。……もし」
 といいかけて、格右衛門はシロを思い出した。事件当夜、唯一の証人はシロだけである。
(よもやすれば)
 格右衛門は一計を思いついた。
「鉄太郎、おぬしは兵馬を町はずれの神社に連れてきなさい」
「ご家老はどうなされるので」
「儂もそこに向かう。唯一の証人がそこにおるでな」
 暫くして、小池に連れられて兵馬が神社に現れた。すでに格右衛門はシロの頭といわず顎といわず撫でて待っている。シロは気持ちよさそうに目を閉じている。
「父上」
 兵馬の声に、格右衛門は顔を向けた。
「来たか。……シロ」
 といって兵馬を指さした。
「あの男の匂いを嗅いできなさい」
 格右衛門はシロの背中を軽くたたいた。シロはゆっくりと兵馬に近づく。
 兵馬はにらまれた蛙のように固まってしまって、ピクリとも動けないでいる。
「兵馬さん。……もしかして」
 小池が尋ねると、世にあらぬものを見るような目つきで、兵馬は首を折るようにうなずいた。
 そうと知るはずのないシロは、鼻を何度もひくつかせながら兵馬の匂いを嗅ぎまわっている。
 暫くすると、シロは
『この人間ではない』
 というつもりで言ったのだが、その声に兵馬は気を失った。
『しまった』
 と、シロは気を失った兵馬の顔を何度もなめて、害意がない事を示したのである。格右衛門は、
「兵馬ではなかったか」
 と安堵しつつも、
「まさか、犬が苦手であったとはな」
 と、苦笑しきりであった。

 兵馬の嫌疑が晴れたことで、特捜班はもう一つの路線である奴集団に狙いを定めた。
 同時に、シロたちの探索に大きな変化が見えたのは、兵馬の嫌疑を晴らした翌日である。
 この日、アオとクロという、それぞれの斑の色で呼ばれていた犬二匹が、シロの袋を嗅いだ匂いをもとに探索を続けていくうち、妙なところに出てしまった。
 妙、というのは長い棒をさした人間たちが何人もいる場所であった。
『アオよ』
 クロが目の周りの黒い斑を揺らす。
『見てみろよ、人間様とやらがさ、ああなっているのをみていると、俺たちとなんら変わらねえな』
 アオは、黒い鼻先を同じ方向に向けると、やはり笑っている。
『なんだかんだといっても、群れなきゃ何もできないのだっているさ。シロのご主人さまのようなひともいれば、あんな連中もいる。犬も犬によりけり、人間も人間によりけり、だな』
 アオとクロは慎重にその場所に近づいていく。
 やはり、武士たちの吹き溜まりであった。犬の目から見てもごろつきに見える連中が、大きな刀を振り回している。
 アオとクロが、うなずいた。
「なんだ、こいつら」
「野良犬じゃねえか」
 口々に連中は二匹を見て言っているが、元より人間の言葉がわからぬ二匹にとっては幸いであったであろう。二人は、武士たちの足元を嗅ぎまわりながら、やがて内部に入っていった。
「追い出せ、はやく」
 連中の一人が刀で追い立てるが、二人はそれを躱す。武士たちも、野良犬には手を焼ているようで、あまり大胆に攻めてはこない。途中、何度かアオが限りを尽くして吠え立てると、武士たちは動かないのである。これが、有利に働いた。
『アオ』
 クロが呼ぶと、アオはそこに飛びついた。
『どしたい』
『こいつだ、間違いない』
 クロは足元を匂いを何度も嗅ぎなおした。アオもそれに続くと、二匹はすぐに何度も吠えたてながら、外に出ようとした。
 しかも、クロは袴の裾の形も見ている。
「兄貴、どこでなつかせたんです」
 傍にいた仲間の一人が冷やかすと、兄貴と呼ばれた男は目の色を変えた。咄嗟に、
(見つかった)
 と本能で感じ取ると、すぐに
「その野良犬を殺せ。生かすな」
 と怒鳴った。周りの連中は戸惑ったが、鈍重そうに追いかける。
 犬のほうが早いのは明確であったが、途中でアオの足がもつれた。
『アオ』
『クロ、先に行け。はやく、シロどんに伝えろ』
 クロは惜別に大きく吼えると、そのまま消えていった。

 シロの本拠地に戻ったクロの報告を受けて、シロたちは部隊を編成、直ちに犬の大軍団が結成された。目的は、アオの救出である。
 クロの先導の元、選ばれた精鋭たちおよそ五十は、すぐに中心郊外の廃屋に向かった。脱兎、という言葉では足りぬほど、それほどにすさまじい速度であった。
 着いた一団は、一様に唸り、吼え始めた。明らかに敵意と憎悪で廃屋を覆わんばかりである。
「うるせえな」
 ごろつきの連中が出てくる。その後ろでは、すでに舌を出して事切れているアオの姿があった。
 これに、何よりも怒ったのはクロである。クロは抜こうとする刀の手首を食いちぎらんばかりにかみついた。人間と犬との壮絶な戦の始まりであった。
 蹴られても立ち向かう犬たちを相手に、最初は刀を躊躇していたごろつきであったが、覚悟を決めて次々と抜き放つと、そのまま犬を斬り始めた。
「この野郎」
 ごろつきも必死に抵抗し、犬たちはアオのため、とばかりに攻め立てる。が、やはり人間にはかなわず、一匹、また一匹と斃されてしまう。
 形勢不利と判断した司令官、シロはベコに退却するよう命じた。
『シロ』
『このまま俺たちがやられてしまったら、ご主人さまの敵をどうやってとるんだ。悔しいが、ここは退くぞ』
 ベコは悔しさで涙を流しながら撤退の合図を出した。
 死んでいった仲間たちの死骸を弔えず、シロたちは本拠地に戻って行った。
「追え」
「兄貴」は、手下たちに追撃を仕掛けた。シロたちの本拠を知るためであろう。
 つけられていることを知らぬシロたちはそのまま神社の境内で待ち構えた。残りの五十もすでに臨戦態勢である。
「何事だ」
 宮司が騒々しさに気がつくと、異様な雰囲気にすぐに尋常ならざる状態であることを見抜いた。そして、鳥居外に目をやると、刀を抜いた。ごろつきが何人も上ってくる。
「おぬしら、神聖な場所を血で汚すのか。罰が当たるぞ」
 宮司はごろつきの頭に大きな岩石を落とすようにして怒鳴り散らした。
「……退け」
 誰かが言った。すぐに刀を収めて、帰っていく。
「誰かおらぬか」
 宮司が呼ばわると、若い男が出てきた。
「惣三郎。すぐに、格右衛門様にこのことを知らせよ」
 若い宮司見習いの惣三郎はすぐに格右衛門の屋敷に向かった。
 格右衛門は城に上がろうと、馬を用意していたところであった。
「惣三郎ではないか。いかがいたした」
 惣三郎からの報告を受けて、格右衛門は騎乗の人になると、城には向かわず、そのまま神社に向かった。
 すでに犬たちは仲間の仇と猛り狂っていて、宮司でもとても抑え込むことができない。
「どうしたのだ、これは」
 馬から転げ落ちるようにして降りた格右衛門は、すぐに境内の中へ走って行った。
「どうにもわかりませぬが、浪人と思しき風体の連中がこやつらを襲っておりましてな、現に犬の数が少なくなっておりまする。それと、この猛りようから察するに、恐らく」
「恐らく??」
「下手人を見つけたのか、あるいは巻き込まれたのか」
 宮司の言葉もそこそこに、格右衛門はシロの姿を見つけると、首に手を巻き付けるように抱いた。
「無事であったか。何があったのだというのだ」
 無論、シロは吼えることしかできないが、格右衛門はシロの向く方向や、吼え方を、警察犬の訓練士のように注意深く見続けると、
「シロ」
 と短く呼んだ。
「もしや、お前、下手人を探し当てたのか」
『そうだ』
 とシロは答えた。無論、格右衛門にそう聞こえるはずはないのだが、格右衛門はその意を察したようであった。
「分かった。宮司、すまんが使われてもらえぬか」
「は。どこにいけばよろしゅうございましょう」
「儂の家にいって、すぐに兵馬に仔細を伝え、城にて捕り物の軍勢を差し向けるように手配せよ。儂と惣三郎がそこに乗り込む。惣三郎は場所がわかり次第、すぐに城に向かわせる」
「承知仕りましたが、くれぐれも無茶だけはなさいませぬよう」
 宮司はそういうと、追い風に乗った矢のように文字通り飛んでいった。
「シロ、案内いたせ」
 シロは鼻で鳴くとベコら残りの手勢を率いて、ごろつきの館に向かった。

 館ではすでに死んだ犬たちを、ゴミのようにして近くの草むらに打ち捨てて片付けてしまっている。
「ここか」
 格右衛門はみすぼらしい汚らしい館に、あからさまな侮蔑を顔に出している。惣三郎に城に向かうよう指示を出すと、
「館林松平家家老、柳田格右衛門である」
 と、叫んだ。格右衛門は戦を知らぬはずであるが、その音声は、戦場さながらに通る。
 見るからにごろつきの連中が、ぞくぞくと出てきた。手には各々の得物がある。
「生田多門殺害の件につき、糾問したる段これあり。潔く、これへ出ませい」
 ごろつき連中のいかにも蛇蝎のような目つきを全身に浴びても、格右衛門がそれで退こうはずがない。
「おぬしらの頭は誰だ」
「兄貴にあってどうするんだ」
「おぬしらの如き小物に用はない。さっさとその兄貴とやらを出さんか」
 ごろつきどもは色めき立って、各々の得物の白刃を格右衛門の前にさらす。同時に、弔い合戦の犬たちは一様に唸りを上げている。
「うるせえぞ」
 といって奥から、男が出てきた。皆口々に、兄貴兄貴と呼んでいる。
 格右衛門は兄貴と称する男の姿を、思い出しながら見つめていると、
「そうか。おぬしであったか」
 と、不倶戴天の敵を見るような目つきで声を震わせた。
「貴様、多門殿の末弟であったな。新三郎であったか」
「よく覚えていたな、格右衛門殿」
 兄貴こと生田新三郎は、役者がおちぶれたような恰好で、不敵で慇懃無礼に笑っている。
「俺がどうかしたのか」
「貴様であろう。多門殿を暗殺したのは」
「何のことかわからんな」
「とぼけるでない。このシロがすべて教えてくれたわ」
「犬が何をほざけるというのだ。そこまで耄碌したか」
 新三郎の言葉を受けて、一同が笑う。
「耄碌はおぬしであろうが。その袴の裾はいかがいたした。見事に食いちぎられておるではないか。そこなるシロの首ぶら下げている布きれと合わせてみるか」
 新三郎の顔から、食って掛かったような笑みが消えた。
「やれ」
 ごろつきどもが格右衛門と犬たちに襲い掛かる。犬たち、復讐戦とばかりにごろつきたちのふくらはぎや尻といった口が届くとこであるならば手当たり次第にかぶりついた。
 格右衛門も負けじ、騎乗で大刀を抜くと、寄せてくる敵を次々と峰で打ち果す。
 暫くして、城から軍勢が押し寄せてきた。その先頭には、惣三郎があった。
 ごろつきと館林軍、さらに犬たちをくわえた三つ巴の大捕り物が始まった。
 人間対人間および犬、といういささか奇妙な大立ち回りは、初めこそごろつきどもに形勢が有利であったが、逐次投入される捕り物部隊の人海戦術にあらがえなくなると、犬たちの手伝いもあって、完全に逆転した。
 この捕り物で捕縛されたのは、生田新三郎をはじめとして十名あまりにもおよんだ。

 詮議がはかられた。
 やはり、生田新三郎らによる犯行であることは疑うところなく、柳田兵馬との関連についても一切認められなかった。
 生田多門が、その末弟である新三郎によって殺された経緯が明らかになった。明らかになった場所は、詮議の白洲の上である。
 この時は奉行を差し置いて松平和泉守が上段に座ったというのだから、この事件の重要性がよくわかる。
「生田新三郎。その方、自らが長兄である生田多門を殺害し、さらにその妻女にまで手をかけたる段、真であるか」
 新三郎は和泉守を射殺さんばかりに睨み付けた。
「……だから何だ」
「何故、生田多門を殺害せねばならなんだ。この和泉にとって、多門は得難き奇貨であった。その方の存念は何だ。遺漏なく申してみよ」
 暫く新三郎は押し黙ると、徐に
「やつが悪いんだ」
 と短く答えた。
「多門が何をしたというのだ」
「あの野郎は、自分の気に入らないやつはどんな手段を使っても追い出そうとしやがる。

「このような結末になろうとはな」
 格右衛門はいささか拍子抜けしたが、犯罪動機というのはあるいはこのようなものかもしれない。
 シロは、捕り物の後、ほかの犬たちと共に城内の庭で休んでいる。
『しかし、人間はこうも広いところで暮ささねばならんとはな』
 といって少し鼻白んでいる。
『贅沢なものじゃないか。広くて思い切り吠えても怒られることもないだろうしな』
 と、ベコは嬉しそうである。他の犬たちはオンジを除いて気が高ぶっているようで、そこかしこでじゃれあったりあるいは喧嘩などしている。では、オンジは、というとゆっくりと伏せて寝ている。
『これからどうなるんだ』
『さあな。俺はご主人さまの敵を討ったんだ。これで十分だ』
『褒美の餌とか貰えないもんかね』
『まあ、わかってくれる人間がいればいいんだが、無理じゃないか』
 ベコはつまらなさそうに鼻で庭の芝生をこすっている。
 シロは何かに気付いた。ふと振り返ると、豪華な着物を着た女が嬉しそうな顔をしてこちらを見ている。
「あれが、多門の飼っていた犬なのですね」
 といいつつ、女がシロに近寄ってくる。
『な、何者だ、お前は』
 と威嚇で二、三吼えてみたが、
「大丈夫よ。悪いことはしないから」
 といって、両手を広げて近づいてくる。恐る恐るシロは頭を両手の間にいれると、なんともいえぬやさしい手でもって、顎を掻いてくるのである。
『悪い人間ではなさそうだ』
 シロは、すぐに腹を見せた。それに呼応するように犬たちが一斉に腹を見せるのである。
「まあまあ、皆好いてくれたのですね。……松。この犬たちを飼いますよ」
 松と呼ばれた老女は、慌てて近づく。
「なりませぬ、姫様。犬をお城で飼うなどととんでもない」
「いいじゃあありませんか。この犬は、多門が死んでしまったら誰が面倒を見るのです?それに、この度の一件では、随分と活躍をしたし、もしこのまま野に放ってしまえば、どのような危害が加えられるかわかりませぬよ」
「ですが、姫様」
「父上のことであるならば、私が説得してご覧にいれますし、いざとなれば、格右衛門にも口添えをしてもらいます」
 シロたちが、この館林城においてそれぞれの役目を(名目上)与えられ、終生、城を守り続けるのである。

 その一方で、不運にも非命に斃れた犬たちにも手厚い犬塚が拵えられ、毎年この春の時期には必ず鎮魂の祭が行われることになった。
 さて。
 生田新三郎に対する判決が出た。
「重職である生田多門及びその妻女を殺害したる段、不届至極。よって、切腹である」
 という和泉守直々の裁断によって、結審した。
 詮議部屋から出てきた新三郎を、偶然シロが見つけた。
 シロはそれまで穏やかな表情で土のにおいをかいでいたのだが、新三郎を見るや憎悪の牙を剥き出しに、今にも喉笛を食い破らんばかりに唸っている。
「これ、やめぬか、これ」
 格右衛門がなだめようとするが、近づく事すらできぬほどに、シロの気が立っている。
「お前、恨みが残っておるのか」
 格右衛門はふとしたことに思い至った。そうなると、体はすでに和泉守の所に向かっていた。
「どうしたのだ」
 和泉守は格右衛門が息せき切る姿を見て驚いた。
「新三郎の一件でござりますれば」
「いかがした。あれは切腹と決めたぞ」
「切腹の儀は、何卒御取りやめを」
「気でもふれたか。生かせて何とする」
「そうではござりませぬ。多門殿のシロに、仇を討たせたく思いまする。このまま切腹させても、武士として死ぬだけの事。そもそも、新三郎を武士ととらえる事はいかがなものでありましょう。新三郎はすでに武士にあらず。犬畜生の餌にしてやるのがふさわしゅう存じまするが」
 興奮してきたためか、格右衛門の言葉が荒い。
「興奮しすぎだ。……確かに、その方の申す事一理ある。それに、そのシロとやらは多門がよく飼っていた犬であることは、よう存じておる。ならば、犬に仇を討たせるのも一興であるか」
 格右衛門の計らいによって、仇討が認められた。
「だが、誰が仇を討つというのだ」
 という疑問が、城内を飛び交った。それについて、格右衛門は
「シロである」
 と言い切った。
 これには、すべての家臣が腹で天を仰ぎみるほどに驚いた。
「しかし、相手は犬ですぞ。とても仇討にはなりますまい」
「いや。シロの体を洗ってみても、一向にとれぬ。ということは、シロの体には多門殿の思いがまだ残っているということだ。ならば、多門殿の無念を晴らし、真に浄土に向かっていただくためにも、必要なことなのだ」
 いわれて、確かにシロの体にはまだ血糊が残ってはいるが、それが多門の無念によるものとはとても考えにくいのであるが、
 そもそも犬が、人間の敵を討とうということ自体空前であり、おそらく絶後になるであろう。
「だが、これは上様が決められたことだ。今更どうこう言っても仕方あるまい」
 格右衛門はそういうと、すぐに準備に取り掛かった。
 城内二の丸前の大広場は、犬が仇を討つ、という話題性もあって、人でごった返している。中には木に登って観覧をしようとするものさえ現れる始末で、それを制止するものが現れたりと、閑静な城の中にあって、異様な喧騒になっている。
 新三郎は少しやつれていて、その狂気さはさらに増幅されている。手に持つ刀は、多門を殺害した凶器である。
 一方のシロは、鉢巻を格右衛門によって頭につけられている。
 ベコたちは、姫のそばにあってシロの四肢によって立つ姿を見つめている。
『大将、頑張れよ』
 ベコが声をかけると、シロはそれに応える。
『仇とってやれよ』
『大将、俺たちがついてるからな』
 などと数十匹の犬が一斉に吼えるものであるから、見届け人である和泉守は耳をふさぎながら、
「どうにかせんか」
 と格右衛門に命じると、格右衛門は犬たちに
「これ、静かにせんか」
 と怒鳴ると、犬たちは一斉に黙った。
 新三郎が、抜いた。
 シロは、全身の毛を逆立てて、うなりを上げている。
 シロがとびかかった。
 新三郎の太ももめがけて牙を突き立てようとすると、新三郎、それに応じてシロの口めがけて一閃、シロはすんでのところでこれをかわした。シロがゆっくりと間合いを取る。
 今度は新三郎がしかけた。一気に飛びついて、シロの首筋を割らんとばかりに振り下ろすが、シロ、うまく新三郎の後ろに回り込んだ。シロ、新三郎のふくらはぎに思い切りかみついた。
 痛さのあまりに、新三郎の膝が崩れたところへ、シロは駆け上がるように今度は新三郎の首筋にその牙を突き立てた。新三郎の頸動脈から、壁が溶けるように鮮血が噴き出す。シロが離すと、新三郎は頸動脈の血も構わず、力なく刀を振り上げたが、すでに力尽き、そのまま前のめりに斃れた。静まり返った歓声が、待ちきれなくなった間欠泉のように一気に湧きあがった。
 シロはそのまま城に残ることは前述したとおりであるが、不思議なことが起こった。
 それまでどれほど洗い流しても取れなかったシロの血糊が、今度は手ぬぐいで拭うだけで面白いように取れたのである。
 差し毛ひとつないシロの無垢の姿に戻ったのである。
『よかったな、シロ』
『いや、まったくだ。一時はどうなることと思ったが、これで何よりだ』
 ベコの言葉に、シロは漸く安心した。
 その姿を見て、格右衛門は
「多門殿、やっと成仏されましたな」
 といって、シロの姿に目を細めるのであった。

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