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治療としてのアイドルマスターシャイニーカラーズ

 なんだか実感の持てないうちにあっという間に3月になってしまった。コロナによって丸1年間が空白になってすべてが靄がかかったみたいに有耶無耶になってしまったように感じる。外はまだ寒い日が続きとても桜が咲くような様子ではないが、心と体を春へと無理にでも引っ張り出すためにも春らしい画像を使わせてもらった。

 この画像の引用元はアイドルマスターシャイニーカラーズというゲームである。まとまった文章を書くのが苦手な私がわざわざnoteなどに他人に見せるための文章を投稿しようと思った動機は、まさに私がアイドルマスターシャイニーカラーズについてどうしても語りたかったからだ。そしてあわよくばこの記事をきっかけにしてアイドルマスターシャイニーカラーズをプレイする人々が少しでも増えてくれればと目論んでいる。とはいえ、オタクの熱量とそれを見た人の「よし、私も始めよう」という気持ちはオタクのキモさのせいで反比例しがちである。

アイドルマスターシャイニーカラーズってなんだ?

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 アイドルマスターシャイニーカラーズ (THE IDOLM@STER SHINY COLORS)は株式会社バンダイナムコエンターテインメントが提供するブラウザゲームであり、通称は「シャニマス」である。ゲームとしてのジャンルは育成シミュレーションにあたり、著名な例としては「実況パワフルプロ野球」シリーズや「デジタルモンスター」シリーズが挙げられる。プレイヤーはゲームの中でアイドル事務所のプロデューサーとなり、新人アイドルを育成してトップアイドルに導くことを目標にゲームをプレイする。

 そして育成シミュレーションの過程で挿入されるプロデューサーとアイドルたちとの交流は、コミュニケーションの略語として〈コミュ〉という言葉でゲーム内において総称され、形式としてはいわゆるビジュアルノベルと呼ばれる、ゲーム画面に表示される文章に絵や映像、音、選択肢、画面効果が融合した形式で表現されている。

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 シャニマスにはゲームとしてどのような魅力があるのだろう。サンプル数に乏しくて申し訳ないが、私の周りでシャニマスをプレイする十数名はだいたい次のようなことを言う。

①登場人物に魅力がある
②絵が美麗である
③物語のクオリティが高い

 賢いフリをしてこのように書いたが、言い換えれば①は「キャラがかわいい!」で②は「絵めっちゃ上手いな!」で③は「シャニマスは文学……」である。書いていてとても恥ずかしくなってきた。とはいえ、このような魅力は、他のゲームでも十分に代替可能なものであり、特に美少女キャラクターが広く浸透した現代で、これらについて特に私が今更語ることも必要もないように感じる。しかし美少女ゲーム業界は群雄割拠でこれらだけの魅力では固有の地位を占めることはかなわない。

 ではシャニマスをプレイして私たちユーザーは何を得られるのだろうか。それは〈体験〉による心の治療である。

empathyの獲得という体験

 カッコつけて〈体験〉などと書いてしまったことを後悔する気持ちがある(ちなみにカッコはギャグではない)が、しかしこれ以上の言葉を私は選ぶことができない。シャニマスがユーザーに与える体験とはempathyを基にした他者理解であると私は考えている。物語上で描かれる人物にプレイヤーが感情移入するのである。そしてこの感情移入は単に他人に自分の感情を移し入れたりあるいは他人の感情を自分に移し入れるという意味だけでの共感を語っているわけではない。シャニマスで行なわれているのはsympathyではなくempathyの再現だ。sympathyは他者の立場に立って他者の気持ちをそのままに感じる、つまりintoではなく、あくまでもtogetherである。sympathyは他者の感情に対する自分の反応を意味し、その直接的反映ではない。それに対してempathyは他者の立場に立ってその感情を思い巡らせ理解する能力である。 sympathyは単に抱く感情であるがempathyはより主体的かつ積極的に相手の中に入っていこうとする行為であり、その能力だ。

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 シャニマスの物語はよく「リアリティがある」と評価される。アイドルの中には古風な話し方をする着物の高校生がいたりと、どう考えても現実に存在しないようなぶっ飛んだ設定がありつつもこのような評価を下される理由はどこにあるのだろうか。

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 これは1432円の商品を買うアイドルと店員とのやり取りの様子である。会話の中で直接語られてこそいないものの、お釣りから逆算すれば、彼女が1432円の商品を買うのに2002円を出していることがわかる。お釣りに端数が出ないように調整して支払ったりするのは私たちの生活の生生しさであり、一つの共感の姿だ。

 こんな奴現実にいるかよって指摘されればたしかに存在しないのだが、こんな奴が現実にいたらこうなりそうだとプレイヤーは納得できるのである。細かい描写の徹底により作中世界の一貫性や説得力が生み出されればそれはまさしくリアリティだ。

 また、シャニマスではプレイヤーたるプロデューサー抜きで進行する会話が非常に多く、むしろ全体的な割合で見ればプロデューサーとアイドルとの1対1の会話はメインでありつつも強調はされていないと感じるくらい少ない。ほとんどがアイドルとアイドルの会話だったり、アイドルと仕事相手の会話だったりアイドルとその友人との会話なのである。プレイヤーはプロデューサーでありながらプロデューサーが知りえないアイドルたちの日常を観察している。

 しかし考えてもみればアイドルが様々な人間関係に身を置いており、プロデューサーとの相関はその一つに過ぎないのは当然のことなのである。プロデューサーとの会話はあくまでもアイドルがプロデューサーに見せる顔でしかない。そしてシャニマスがあえてそれ以外の相関を描くことに注力したのは、プレイヤーがアイドルをやっているその人間一人一人の心情を理解していくempathyの獲得を、人物を多面的・多層的に描写することによって成功させることを狙っているからだろう。シャニマスではプレイを通じてこうした他者理解の体験が自然とできるのである。

他者の気持ちになるということ

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 他者の気持ちになってものを考えてみようというのは私たちの誰もが幼いころか言われ続けてきた言葉だ。たしかに共感能力はふつうの日常生活において人間関係を円滑にしていくために必要なことだろう。しかし、他者の気持ちになるということの実態とは何だろうか。

 私たちの経験は常にある時間、ある空間の中で起こって、それらは主観的に意味づけられて沈殿していくことで私たちの経験の複雑な地平構造を作り上げていく。そして個々の経験においては私たちはその経験の中心的な対象たる「核」を志向し、それはまた様々な地平に囲まれているのであり、この地平の総体が私たちの生きている世界なのである。

 共感における「他者と同じ気持ち」もこのレベルで考えなくてはならない。すなわち、単に感情の種類が同じか否かが問題ではないのだ。感情的経験においては必ず志向的対象がある。私たちはそうした志向的対象を核としつつ地平構造を携えた世界を生きているのである。そしてこのような意味での世界が他者と一致しているかどうかが問題なのだ。

 私たちが他者の気持ちになってものを考えるとき、本当にやっていることは「自分が相手の立場だったらきっとこう思うだろう」というシミュレーションだ。これは突き詰めてしまえば自分の気持ちを他者の中に押し付けて自我と他我をぐちゃぐちゃにしていることになる。このとき私は他人の中に入り込み、そこで私とその人は出会うのである。他者と同一の世界を生きるという共感の本質的な部分とはこういうことだ。

治療としてのシャニマス

 私たちの日常生活でも当たり前のこととして共感を基にした他者理解は行われている。しかし、それはどうしようもなく現実の問題であり、実戦であるために取り返しがつかないものだ。ときにはその理解を誤り、故にすれ違い、他者を理解することあるいは理解に努めること自体に対しても恐怖を抱いたり拒否をしてしまいたくなることもあるだろう。その点、シャニマスはゲームである。現実の問題ではないので取り組みやすい。かといってゲームだからといって不誠実な態度で臨むことを許容するわけでもなく、現実で私たちを取り巻くような問題と同質なものを突きつけくる。まさしく大袈裟ではあるが共感体験シミュレーションゲームだ。

 そしてシャニマスが提供する共感の他者理解は実は自分自身を理解すること、さらに自分自身の精神を治療することにまで繋がっている。

 empathyの共感とは他者と同一の世界を生きるという経験だ。その過程で私たちの自我と他我は融合する。この経験は私と他者の「出会い」の経験でもある。「出会い」においては私と他者はお互いの既有の世界を出て、それぞれにとって異質の他者の世界と会い、そのことによって互いに自らの世界を変化させて豊かにし、私を再確認できるだけでなく変容・成長させるのである。

 シャニマスはアイドルのプロデュースを通じてアイドルが抱える些細な内的問題を解決していくことが一つのテーマになっているが、ここで行なわれているのは私たちが抱える精神的問題をアイドルに投影し、アイドルの問題を解決することで我々自身も救われるということである。ゲームにおいてプロデューサーがアイドルに対して行うのはあくまでも(主客の差が明確な)sympathyであるが、私たちプレイヤーは直接にアイドルの(主体的な)感情に接することになるためempathyの獲得となる。こうして得られた共感による他者理解を通じて私たちは自分自身を治療しているのだ。

 治療という言葉は単に「死は救済だ」といったような雑な文脈で使っているものではない。後期ヴィトゲンシュタインでは、哲学問題を抱え込んだ人間は一種の病人であり、それを治療するのは哲学にほかならないという哲学観が打ち出され、ヴィトゲンシュタインは言葉を日常レベルに戻し疑似的な哲学問題を解消することを目指した。私たちはシャニマスで精神をempathyによってアイドルに投影して拗れた精神的問題を解消することができる。だからこそ治療なのである。

 他者に共感することは難しい。そして、共感すること自体を目標にしても共感は成立しない。そのような態度は他者の世界へと自らの志向が向けられていないのだから、それは実は他者を理解しようとする態度とは言えないのだ。これに対して逆に、他者の世界を志向する態度はそれを通してのみ共感が可能になる態度であり、たとえそれが現実には常に共感に至ると限らないにせよ、真に他者を理解しようとする態度であると言えるだろう。シャニマスはそれを体験させてくれる。

 カッコつけているように思われるかもしれないが、これまで現実の他者の内面にさして興味がなかった私が、架空であれ人物の内面に惹かれていることそれ自体自分にとっては革命なのだ。体験による他者理解の練習によって自分が人間に近づけているように思う。

 こんな乱文を読んでいただけたことに感謝します。そして願わくば私の曖昧で観念的な話に惑わされずあなた自身の手でシャニマスをプレイしてもらえると嬉しいです。

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