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「何か言わなきゃ!」という呪縛-アメリカの大学院で評価される授業態度についての個人的経験-


約一ヶ月ぶりの更新になってしまいました。新しい学期が1月半ばに始まり、ようやくリズムが掴めてきたところです。先学期よりアシスタントに入るクラスが増えたのと、外国語教師トレーニングに参加しているのでますます忙しくなってしまいました。燃え尽きないように気をつけます。

今学期は2つの授業を履修しています。修辞学メソッドに関するクラスと異文化コミュニケーションに関するクラスです。自分の興味がある分野ドンピシャのクラスで、リーディングの課題に溺れそうになるものの、楽しく勉強しています。

今学期もすでに1/3が終了したのですが、異文化コミュニケーションのクラスで経験したことについて今日は書きたいと思います。


アメリカの学校で求められる授業参加態度

これはもう語り尽くされてるネタですが、「とにかくアメリカの学校では発言してこそ!」みたいな話、よく聞きますよね。それなりに努力はしますが、何か言わなきゃいけないプレッシャーとか、話振られた瞬間ってメンタルが削がれる... 
先学期はずっと削られていました。
「どう思う?」って聞かれて、思うことはあっても言語化してスラスラと話すのは心理的に負担でした。頑張って発言するけど、頭の中でうまく発言を組み立てられずに着地失敗し、声のボリュームを落としながら自然と会話からフェードアウトする日々...

日本人の国民性なのか、個人的な性質なのか。多分どっちもある。

シラバスを読んでみると...

実はこのクラス、とても人気でして最後の最後までウェイトリストで辛抱強く耐えていました。その結果、2週目から参加できることになったので、1週目でどんな説明があったのかはよくわかりません。1週目のシラバスを確認すると「期待される(授業)参加態度は文化によって異なります。発言することだけではなくて、人の話を聞くことも大切です」と書いてあって、ちょっとホッとしたのを覚えてます。
このクラスは毎週3本のペーパーを読み、それについてオンライン上の授業ページ上に各学生がエッセイを授業前に投稿、そして授業ではその投稿をもとにディスカッションをします。トピックは異文化コミュニケーション、特に文化的アイデンティティに関するものが多いです。

いざ授業へ でもやっぱり発言できない

課題のペーパー読んで、キーワードもノートに事前にまとめた。アイディアもある。臨戦態勢。いざ、教室へ...
やっぱり発言できません。クラスで扱われるトピックを自分の解釈や体験と合わせて発言する場面が多いのですが、自分の解釈や体験を他人に共有することに抵抗を感じてしまうのです。
私の大学院は、土地柄、メキシコ文化と関わりが深い学生が多く、「メキシコ系アメリカ人として〜」みたいな発言に対して「あるあるだよね」みたいな共感を示す相槌をするやりとりだったり、「アメリカの若者って...」みたいな主語大きめの会話でもアメリカでティーン時代を過ごした学生なら共感できる発言が結構多かったんです。
でも私は日本で生まれて育って日本語で全ての思考を巡らしている人間です。私は自分のことを「日本人」だと思っているけれど、学科で唯一の日本人かつ留学生。私の発言に共感の相槌が生まれることはありません。
これのさらに怖い点(※私が勝手に怖がっているだけ)は、自分の経験や解釈が他の学生にとって日本人のステレオタイプ形成の一助になってしまうのではないか、ということです。日本とあまり接点のなかった学生にとって、「私の発言=日本人の考え方」みたいになってしまうのではないか、と思うと違和感があります。 別に全日本人が毎日お寿司食べてるわけじゃないし、布団で寝ているわけでもない。日本人の中にも多様性がある。彼らの中の日本人像を私から作って欲しくないなと思っています。
自分のことは日本人だと思っているけれど、他の人からは日本人と思われたくない、みたいな?すごいわがままで複雑な心境ですが、とにかくそんな感じです。

教授に伝えてみたら

このクラスでは「授業後にその日のクラスでどのように授業に貢献したか」というミニレポートを毎回提出します。シラバスに人の話を聞くことも大切って書いてあったことを思い出し、先日のミニレポートに「誰もそんなプレッシャーを直接かけてこないので私が気にしすぎてるだけかもしれないけど、自分の発言が日本人のステレオタイプ化に繋がりそうで発言を躊躇ってしまう。発言はしていないので、すごくポジティブにいえば”誰の発言も邪魔していない”ことが貢献だ。」と書いて提出しました。
すると数時間と立たずに教授からフィードバックが届きました。” I know that you are an active listener!”と書いてありました。人の話を聞く私の授業態度をしっかり評価してくれていることがわかり、肩の荷が下りました。発言しないとそのクラスでは空気だと思われているんだろうな、とそれまで感じていたし、実際に空気だったんだな、というのを先学期の評定から受け取っていました(笑) 

今回、自分はActive Listnerという状態で、決して授業に参加していないわけではないと確証できたので、この教授には感謝しています。 
そして続きには「もし抵抗を感じなくなったら、あなたの声を聞かせてね」と書いてありました。幸い(?)授業前のエッセイ投稿では自分の意見をしっかり言えるし、それに対してコメントがついてもしっかりと他の学生と意見を交わせます。「私にも意見がある」ということを教授がちゃんと把握していて、私が抵抗感を克服するまで発言することを強制してこないことが私には心地よく感じ、ますますこの授業を頑張ろうと思いました。でも、この抵抗感はすぐには拭えない。

Active Listenerでいてみよう

コミュニケーション学科の異文化コミュニケーションクラスだからこそ、こういう柔軟な考え方が存在することを経験できたのだと思います。もし、今アメリカの授業で発言できずに悩んでいたら「自分はAcvtive Listnerなんだ」と思ってみてください。
少し気が楽になると思います。
そして、発言がないからといって、その人のスキルが低いと評価したり、存在を蔑ろにしていいわけではなく、そこに存在するだけで(発言量の多寡にかかわらず)誰しもが尊重されるべき存在である、という考え方はちゃんと心に留めておこうと思います。この経験は本当に自分にとって実りあるものでした!


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