「自由な広場」としてのインターネットと同人誌

 ツイッターでの例の死ぬワニ騒動の中で、はたと膝を打つような意見を聞いた。インターネットは自分たちの遊び場だったという話だ。

 これは自分にもどこか思い当たる。インターネットという「もの」は以前はマイナーな「場」であり、「サブカルチャー」とも言えた。確かにある程度パソコンの知識が無きゃ入ってこれなかった訳だが。
 そこには現実世界がイヤになって逃げ込む人もいた。「才能の無駄遣い」を大道芸や大喜利のように見せ合ったりしていた。企業の担当者が来てもどこか「濃い」人で、場合によっては「神降臨」となった。

 そこで思い出したのが「のまねこ騒動」だった。ある海外の楽曲に勝手にアニメーションを付ける遊びをしたら、その楽曲の日本担当の会社がそこに使われたキャラクターを(少し変えて)商標登録、グッズ化しようとしてブーイングを食らった。「著作権からの解放区」だったから起きた騒動であろう。

 そういえばコミケに代表される同人誌の世界も、「遊び場」と言えた。確かに流行ジャンルもあるが、評論・情報ジャンルに「なぜこんな本が」というものがあるだけで(装丁がコピーを綴じたものでも)ちょっと一部にウケたりした。

 でも今やコミケもそれまで縁が無さそうに見えた有名芸能人が、普通に「降臨」する場になった。もはやマイナーな場ではない。ニッチ的なコピー誌からのしあがるのも前より難しく感じる。

 先に自分が聞いた意見の続きでは、インターネットも、もはやマイナーな場ではないというのだ。メインカルチャーだと。確かにメジャーとマイナーの混沌と言えると思う。テレビCMが大々的な金をかけた全国放送から、地方のパチンコ屋や弁当屋まであるのと似ている。
 ツイッターにしても田中圭一vs手塚るみ子のプロ同士の高度な「プロレス芸」を楽しむ人が一定数いるだろう。最初からプロ同士の芸であると見せておけば、そこはブーイングなどされない。

 特にYouTuberなんか見ていると、これは本当にテレビに拮抗できるメインカルチャーの中で、時に下克上が起きたりしている場なんだなと思う。

 どうしても年寄りの「昔は良かった」話になってしまうが、その状況を見ながら、どんな風にインターネットというツールを使って生き延びて行くのか、考え直す時期でもあるように思う。

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