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フェミニズムは元ツイを批判しなくてもよい! のだけれど……

 コンティンジェント研究所は「世の中を今よりも少しわかりにくくする」ことをミッションとして2018年に設立されました。

 今回は、Twitterのとあるツイートをめぐって行なわれた、社会学者の小宮友根先生 @frroots (以下、小宮先生)とインターネット論客の青識亜論氏 @dokuninjin_blue (以下、青識さん)とのやり取りについて、ちょっとわかりにくくなるような解説を試みます。

 どなたでも、これを読めば、話題がこれまでよりもちょっとだけ複雑に見えてきて、何が何だかよくわからなくなること請け合いです。ぜひ最後までお付き合いください。

1.はじめに~何が起きたのか

 まず、連日にわたる長い議論のきっかけとなったのは、jiji氏(以下、Jさん)のツイートでした。

 これに向かって、批判の声を上げたのが青識さん。

 青識さんは「フェミニストはJさんの発言に対して批判的に反応すべきだ。にも関わらずそれをしないのであれば、HeForSheは正義の構想としては、成立しないのではないか?」と疑問を投げかけます。

 これに対して、小宮先生は次のように反応しました。

「Jさんのツイートは"差別的なものに乗っかるな”と呼びかけているようにも思える。そうした反差別への言及を無視して、これを「悪口」と見なすのは雑なことだと思う」という意味に取れます。

 これに対して青識さんが「いったい何が差別的なのか?」と問いかけ、小宮戦争がそれに応じて、論争へと発展していきました。

2.フェミニズムはこう考える~初戦は青識さんの負け

 そこから小宮先生のツイートが続きます。若手の社会学者らしく、論理的で丁寧な説明なのに恐縮ですが、長すぎるので割愛します。

 一連の小宮先生の説明で重要なのは、次の点です。

「フェミニズムの思想や理論は、Jさんが行なった元ツイの発言を、青識さんが解釈したのと同じようには解釈しない。だから、フェミニストは元ツイの発言を批判しないのだ」ということ。

 小宮先生のこの答えを、皆さんはどう思われるでしょうか。私としては、青識さんの最初の質問に対するものとしては、これはほとんどパーフェクトな回答だと思っています。

 なぜなら、青識さんは「フェミニズムがJさんの元ツイを批判しないのはおかしくないですか?」と疑問を投げかけていました。それに対して小宮先生は「批判しない理由がフェミニズムにはちゃんとある」と示したからです。

3.新たな問題が浮上~討論ゾンビの逆襲

 ここで、もう一度青識さんのツイートを思いだしてみましょう。

 小宮先生は、青識さんが前提としていた、このような言説が「フェミニストの陣営から批判されず」、「単純に受容される限り」という部分には、ほぼ完ぺきな返事をしました。

「フェミニズムは君が思い込んでいるほどいいかげんな思想や理論じゃない。君が知らないだけで、ちゃんとした議論を積み重ねてきている。フェミニズムがいろいろとおかしく見えてしまうのは、君がフェミニズムについてよく知らないからなんだよ

 アカデミックに考えればこの時点で青識さんの完全敗北ですが、青識さんは一刀両断にされても、戦意を喪失することなく食い下がりました。そして、そこから続いた論戦の中で難問が浮かび上がってきたのです。

 ここでは、以下の2つの点を指摘しておきましょう。

 【正義論】フェミニズムが論理的に正しくても、青識さんのフェミニズム批判もまた同時に成立する、その可能性について。

 【認識論】フェミニズムに限らず、論理的には正しい理論にもとづく認識が、どんな問題を生み出しうるのか、その危険性について。

 なお、以下の考察は、「最善の相」でお読みいただければ幸いです。

4.正義論~フェミニズムに同意する必要はない

 フェミニズムはJさんの元ツイを差別的な発言ではなく、むしろ反差別の表明と見なすので、元ツイを差別的だとして批判するような合理的な理由は、フェミニズムにはない。 

 あらためて、小宮先生のツイートの趣旨を私なりに解釈してみました。ここから明らかになるのは、フェミニズムが外界の出来事に対してどのように反応するかは、フェミニズムの側が決めているが、それはフェミニズムにとっては合理的だ、ということ。

 すこし考えればわかりますが、これは「私の都合に従って私が決めていることは、私の中では合理的だ」といっているようなもの。「そりゃまあそうだろう、お前の中ではな……」というのが私の率直な感想。

 そこから一歩踏み込んで、「私の都合で考えた私の意見を社会全体が耳を傾けて、実現してくださいね。世の中もよくなりますから」といわれても、まあ私に何かいってるんだろうなとは察せられるんですが、それを聞き入れる義理は私のほうにはないのですね。

 こわいお兄さんやお姉さんが詰めてきたり、知人から愛想をつかされたり、法律が変わったり、私がお金をもらえるなら別ですけど。ほかには友情なんかでも、イイですね。他人からの称賛も、ありそうですよね。

 というわけで、フェミニズムは論理的には正しいのですが、論理的に正しいからと言って周りの人がそれに従うように強要はできません。自発的な賛同が得られるとも限らない。

 となれば、HeForShe(やフェミニズム)が正義の構想としては成立しないのではないか、という青識さんのもう一つの問いは、まだ生きているということがいえます。正義が関わっているのは、人々が自らすすんで従うことができるか、たとえ嫌でも従わざるを得ない、そういう緊迫した領域です。

 事実、青識さんのそのあとの問いは「なぜ我々(男)が、ケンカを売られたと思わないといけないのか(なぜ我々がコミットせねばならないのか)」というものであったように思います。無視ではダメなんですか?

 こういうとき、穏健な学者は熟議や対話の可能性を引き合いに出しがちです。われわれは相互に同意を形成することができる、というのが彼らの仮説、または願いのような何か、なのでしょう。

 青識さんの応答のスタイルに対する小宮先生の批判からも、そうした想いを垣間見ることができます。

 しかし、現実的に彼らがしているのは、対立に用いられる理論や思想を提供し、対立を促すこと。私には、そう思えます。私がそう思うのには合理的な理由があります。事実として、彼らの言葉が、対立の中で引用され、参照され、繰り返されるのを見ているからです。

5.認識論~理論のガチャを引く

 ここでは「理論がどんなに合理的でも、現実から外れてしまう可能性がある」。そして「小宮先生はその罠に陥っている……というよりも積極的に利用しているフシがある」という話をします。どうぞお付き合いください。

 小宮先生は、フェミニズムの理論に基づき、Jさんの元ツイを「レイシズム」や「オリエンタリズム」に反対していると解釈しました。

そして同じツリーで、次のようにも述べています。重要です。

 さらに続けて、下のツイートも、とても重要です。

 以上をまとめると、小宮先生は、ここで次のようなことを言っていることになります。

1.フェミニズムは、元ツイをレイシズムやオリエンタリズムに反対する意味をもつものとして、理解できる。
2.この解釈は、元ツイでJさんが実際にどんな意図を持っていたかとは関係なく、考えられる可能性として合理的である。
3.われわれは、われわれの理論と思想の可能性の話をしているのであり、実際にJさんがどんな意図でこのツイートを書いたかとか、このツイートによってJさんが何を表現しようとしたのかは、考慮していないし、考慮しなくてもよいものとする。これは前提なので、わかってほしい。
4.したがって、青識さんとの議論では、われわれのフェミニズム理論が、元ツイには反レイシズムや反オリエンタリズムの価値観が表明されていると、合理的に理解できるということが問題となる。

 身もふたもないことをいってしまうと「現実にJさんが何を思い、何を言おうとしたかは問題ではなく、ただフェミニズムの理論がJさんのツイートをどのように解釈できるかが、ここでは大切なのだ」ということです。

 これは一言でいえば「理論と現実との一致は保証されないし、確かめない」ということ。私はこの命題そのものには同意しますが、こういう場面で持ち出してくるのは、ちょっとひどいんじゃない?って怒りを覚えます。

 こういうとき、別の例を引き合いに出すのはあまり好きではないし気が引けるのですが、ちょっと単語を置き換えてみましょう。

1.天動説は、太陽が地球の周りをまわっているものとして、理解できる。
2.この解釈は、実際に宇宙における天体の動きがどうなっているのかとは関係なく、考えられる可能性として合理的である。
3.われわれは、われわれの理論と思想の可能性の話をしているのであり、実際に太陽が地球の周りをまわっているのか、それとも地球が太陽の周りをまわっているのかは、考慮していないし、考慮しなくてもよいものとする。これは前提なので、わかってほしい。
4.したがって、青識さんとの議論では、われわれの天動説が、太陽のほうが地球の周りをまわっているように見えるということを、合理的に理解できるということが問題となる。

 理論の中では筋が通っています。でも、現実から外れています。このように、理論の内側での論理的な正当性は、現実の当てはまりを必ずしも保証しません(現実との当てはまりを、理論とは別のものが保証することは、不可能ではありません)。

 そして、この「外れ」という言葉の意味ですが、単に「理論による予測が外れた(当たらなかった)」という意味ではありません。

 そうではなくて。

 ここで起こっているのは、そもそも地球の周りをまわっている太陽なんて存在していない(かもしれない)のに、地球の周りをまわっている太陽があると仮定して、理論は合理的なのだから、理論をもとにして現実を解釈する私たちの活動も認めてほしいといっている人たちがいる。そして「ひょっとすると地球が宇宙の中心なのではないか?これも合理的だな……」という話をえんえんと続けている可能性がある、というわけです。

 予測が当たらないのではなく、最初から存在していないものをあると前提して、そこから話を広げているわけですね。そして、それを合理的だとして後押しするような思想が、動いているわけです。

 小宮先生の場合はさすがにここまでひどくはありません。それに、現実をすべて考えていたら理論なんて構築できないし実践もできないのは事実だと思いますけれども。社会学的分析が他者の本心や意図に到達できるかというのも、とても難しい問題です。

 そういった難しさをなかったことにして、理論を前に進めていくのは、理論にとっては楽なことだが、現実から外れていく危険をともなう。だから、せめて難しさに向き合わないといけない、たまには思いださないといけない、ということをわたしは言いたいのです。

 それはさておき、こういった事態を、私は「理論のガチャを引く」と呼んでいます。当たりが出ないソシャゲでガチャを引き続ければ、試行回数と課金額が積みあがっていきますが、運営はSSRが実在するかどうかを明言していません。そんなガチャを想像してみてください。

 同じように、積み重ねられた議論の量と、そこで示された合理性を持ちだして「ここに歴史の積み重ねがある。そして理論は合理的だ(当たっているかどうかにはこだわらない)」と誇示したところで、「先生、それ、いつお辞めになるんですか?」と返されるのが、関の山ではないでしょうか?

 少なくとも、私の中では、それが「合理的」な反応のひとつの可能性だと思うのです。(「最善の相」でお読みくださいね)

6.終わりに~コンティンジェントな可能性

 小宮先生は「フェミニズムは合理的だ」ということを示しました。一方で、青識さんは彼の主張の合理性をじゅうぶんに示すことができなかったと、私は思います。

 ですが、青識さんのねらいは自分の合理性を示すのではなく、小宮先生の言動から、フェミニストの傲慢さ、義務を片方にだけ求めるが、自分は守ろうとしない無責任さ、身勝手さをあぶりだすことだったのかもしれません。

 その件について。いわゆる「最善の相」をめぐって浮かび上がってきた問題に関していえば、私もいくつか書けることはあるのですが、今の時点でそれを書きたいとは思いません。

 青識さんや、ほかのnote著者の方がいずれくわしい記事を書かれるでしょう。まずは、それを読むのを楽しみにしています。

 わたしとしては、青識さんと小宮先生とのあいだでかわされたいくつかのトピックは、もっと別の実りがある可能性はあったし、こうではない終わり方、コンティンジェントな結末もありえたのでしょう。

 ですが、それはフェミニズムと、表現の自由を守ろうとする人々との対立の間にも、別の可能性があったハズなのです。その別の可能性を閉ざしたのは何だったのかということを、小宮先生、青識さん、議論に関わったすべての人たち、そして私のつたない論考を読んでくださった皆さまに、少しでも想いを寄せていただければ、筆者としてはその喜びに勝るものはありません。

 それでは、また別の機会に。

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