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隠語(第6話)


 エンジンをかけようと、ハンドル横に設けられていたエンジン起動用のプッシュボタンを押す。だけど、車の前方からキュルキュルという音がするだけでエンジンは掛からなかった。何度か押してみる。やはりエンジンは掛からない。
「くそっ」
 田代はプッシュボタンから指を離した。
 ルームライトをつけっぱなしで長時間放置したせいで、バッテリーが上がってしまったらしい。こうなってしまうとロードサービスを呼ぶしかなかった。費用は運転手の実費になってしまうので、また給料がその分引かれてしまう。
 全てが、あのような女をタクシーに乗せたせいだ。全くついていない。
「くそっ」
 今度は、あの女に向かって悪態をついた。
 その時、タクシーの前方100メートルくらいにあった住宅の影から、何かが道路に向かって飛び出してきたのが見えた。
 何だ。
 田代は動きをとめて、その何かに目を奪われる。その何かは道路の真ん中に立ち尽くし、こちらを見ているようだった。田代の位置から距離が離れていたのと、そして街灯の薄明かりの下だったので、田代の目にはそれが何かははっきりとは見えなかった。
 だけど、とてつもなく嫌な予感が田代の背筋を這い上ってきた。
 その何かは、何の前触れもなく、突然こちらに向かって走り出した。信じられないくらいの速さだった。その何かが街灯の真下に入った時、田代の目にそれが初めて鮮明に映った。
 それは、先ほどタクシーに乗せた、あの女だった。
 肩から下げていたバッグはどこかに捨ててきたのか、持っていない。右手に鋭利な棒状のものを握り、長い髪を振り乱しながらこちらに向かって走ってくる。
 まずい。
 体に電流が流れたかのように、田代は反射的に動いていた。
 慌てて運転席の横から後ろ側に体を乗り出して、後部座席のドアのロックを閉めていく。手が震えてなかなかロックに指がかからない。それでも何とかロックを閉め終えたときに、そもそもとして運転席のドアのロックを閉めていなかったことに気づいた。田代が体を前方に戻し、運転席のドアロックを閉めようと横を向いた時、その窓のすぐ近くにあの女が来ていた。
「うわあああああ」
 田代は間近に見える女の姿に驚いて大きな叫び声を上げながらも、右手をドアのロックにかけた。
 ドアのロックが閉まるのと、女がドアノブに手をかけるのはほぼ同時だった。だけど、田代の指の方が一瞬早かった。
 女がドアを開けようと、執拗にドアノブを動かすガチャガチャという音が、田代のすぐ横から何度も聞こえた。
 窓のガラス越しの、本当にすぐ近くにあの女の顔があった。
 長い髪の隙間から見える無表情の目は、田代をじっと見ていた。いや、見ていなかった。田代を見つめながらも、田代ではなく、どこかに広がる闇を見ている。女の無表情の目を見て、田代はなぜかそのように感じた。
 しばらくドアノブを動かすガチャガチャという音が聞こえていたが、その音がやんだ。女も動きを止める。
 タクシーの中に突然静寂が訪れた。
 耳には荒い自分の呼吸音と、そして狂ったように波打つ自分の心音だけが聞こえていた。田代は目の前の女から視線を外すことはできなかった。
 女はゆっくりと右手を振り上げた。
 その右手には、刃渡り20センチくらいの細長い柳刃包丁のようなものが握られていた。その刃は赤く染まり、それは包丁の柄を通して女の右手まで広がっている。
 女は田代のことを見下ろしながら、その口角を微かに上げた。女は不気味に笑っていた。田代には、それが何よりも恐ろしかった。
 そして思い切りその右手を、窓ガラスに向けて振り下ろす。包丁の柄がガラスに当たる、ガンッという音が車内に響いた。

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