走馬灯(第10話)
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特に物が置かれていない殺風景な部屋だった。
ベッドの脇に置かれている小さなタンスの上には、私は見たこともない小さな花が一輪花瓶に生けてある。部屋は小さく、申し訳に取り付けられている窓からは何の変哲もない住宅街の様子が見える。
ベッドには私の母が寝ていた。部屋の隅に突っ立っている私は、その顔をじっと見つめていた。その顔は本当に幼かった。年齢は私とそれほど変わらないのではないのか。だけど、少しやつれた顔には不思議な決意と強さが滲んでいるように見えた。
トントンと部屋のドアのノックの音。
「はい」
静かに扉を開けて中に入ってきたのは、先ほどの私のイメージの世界で私の父とやり取りをしていた祖父の姿だった。つまり母にとっては父親になる。その顔は母以上にやつれていて、苦しみが滲んでいる。祖父の顔を見た途端、母は感情を閉ざすように強張った顔をしてベッドの上で上半身を持ち上げた。強い視線で祖父を見据える。祖父の背後に立っている私にも、その視線の圧力を感じるほどだった。母は視線をそらしてうつむく。それでようやく金縛りが解けたかのように祖父はゆっくりと歩み寄り、タンスの横に置いてあった折りたたみ椅子の上に腰をかけた。
「具合はどうだ?」
「別に……」
「そうか……」
二人の会話はすぐに途切れた。
重苦しい沈黙が二人を、そしてそんな二人を見ている私を包み込む。
「……どうしても、産むのか?」
「何度も、言わせないで欲しい。何を言われても私の考えはかわらない。私は絶対にこの子を産む」
「……お前には、普通の高校生としての生活を送って欲しいだけなんだ。普通の女性としての人生を生きて欲しいだけなんだ」
「普通の高校生としての生活って何?」
「何って……。普通に高校に通って、普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚して……。そんな普通の人生を生きて欲しいんだよ」
「私は普通の人生を生きたいわけじゃない。私は、私だけの、私としての人生を生きたいだけなんだよ」
祖父は大きく深いため息を吐き出す。
「なぜ?」
「え?」
「お前はまだ高校生なんだ。それなのに、なぜ、その子を産みたいんだ? なぜ、その子を産むことにそんなにも拘るんだ?」
「証だから……」
母はまた正面から祖父を見据える。
祖父は少しうろたえたような表情を浮かべたが、それでも母から視線をはずすことは無かった。
「私が生きていることの……、生きていたことの、証だから……」
心の奥の曖昧なものを必死になって拾い上げるようにして訴えかける母の眼に大きな涙が溢れている。涙はボロボロと瞳から零れ落ちた。
「私の存在理由がここにあるんだと感じられる。この子を産むだけでも、私はこの世界に生まれてきた意味があるんだと思える……。私にとってこの子は、そんな存在なんだよ……。そんな存在を捨ててしまうことなんてできるわけがない。そんな存在を殺してしまうことなんてできるわけがない。そんな存在を殺してしまうことは、私自身を殺してしまうことでもあるんだよ……」
(お母さん……)
私の目の前で、私と同じ高校生の母は辺りも気にせずにボロボロと涙をこぼし続けている。
(お母さんは、こんなにも私のことを思っていてくれていたんだ……)
私の存在を喜んでくれていた人が少なくともこの世界には一人は居た。その事実が本当にかけがえのない奇跡のように感じられた。
いつまでも泣き続けている母を見つめながら、私の眼からも涙が溢れてきた。次から次に溢れてきてとまらなかった。とめようとも思わなかった。
今まで生きてきて、私は自分の母のことを誰からも聞かなかったし、誰にも聞こうともしなかった。それはある種の禁句として私はずっと過ごしてきた。母と会おうとすることもなかった。対面という話が挙がってくることもなかった。そもそも「母親」という概念自体が私には無関係なのだと心のどこかではずっと信じて生きていた。
今、眼の前で肩を震わせながら泣いている母。
私は、そんな母に、
「私を産んでくれてありがとう」
と伝えたいと強く思った。
でも、私と母の世界はつながっていない。どうしたら母にこの思いを伝えられるのだろう。立ち尽くしながら、そのことをずっと考えていた。もし、今ここで心の奥底から叫んだのなら、眼の前で泣いている母に届くということはないだろうか。
「お母さん……」
母も、それを困った顔で見つめている祖父も、私を振り返ることは無かった。
「ねえ、お母さん……。お母さん!」
私の声は誰にも届かなかった。