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隠語(第13話)


エピローグ

 深夜の街を、一人の男が歩いている。
 仕事帰りのサラリーマンの姿もすでに路上には見えず、街はひどく閑散としていた。
 彼は、会社を辞める後輩の送別会に行った帰りだった。
 本当は一次会で帰る予定だったが、その後輩に、
「先輩もぜひ二次会に来てください。相談したいことがあるんですよ」
 とせがまれて、仕方なく二次会に参加した。だけど相談といっても何のことはない。後輩が今まで勤めていた会社、つまり彼が今勤めている会社に対する愚痴がそのほとんどを占めていた。
「だから、この会社は駄目なんですよ」
 酔って呂律が怪しくなった後輩の話にうんざりとしながら、それでもそれをできるだけ顔に出さないようにして、
「分かるよ」
 と相槌を打つ。後輩は、
「いや、分かっていないです。だって、先輩は今の会社を辞めていないじゃないですか」
 とそれまで以上に会社の悪口を喋り出した。そんなことを続けているうちに、彼自身の終電の時間を逃してしまったのだ。
 本当に無駄な時間だった。
 悪態をつきたい気持ちを必死に抑えながら、彼は道路に向かって右手を挙げる。
 一台のタクシーが彼の前に止まった。
 ドアが開き、タクシーに乗り込む。
「どちらまで?」
 自分の家の近くまでの道を簡単に説明すると、タクシー運転手は「了解しました」と一言言ってからタクシーを発車させた。
 しばらく、タクシー運転手も彼も何も喋らなかった。無言のままタクシーは深夜の街を走り続けていた。
「お客さん、どうかされましたか?」
 突然タクシー運転手に声をかけられた。彼は少し驚き、
「え?」
 と前を見る。バックミラー越しに、タクシー運転手がこちらを見ているのが目に入った。そのタクシーに乗ってから初めて、そのタクシー運転手の顔を見る。40過ぎの冴えない中年男性の顔がそこにはあった。
「何か、ぶつぶつと文句を言ってましたよ」
 どうやら無意識のうちに、その後輩についての文句を呟いていたらしい。
「いや、なに……」
 彼は、先ほどの送別会のことを簡単に運転手に話す。
「そうでしたか。私もつい三ヶ月前に前の会社を辞めて、タクシー運転手に転職したんですよ」
「へえ、そうなんですか。でも、なぜタクシー運転手に?」
「いやあ、色々とありまして」
 タクシー運転手は言葉を濁す。何か言いにくいことでもあるのだろう。彼はそれ以上問いかけることはしなかった。たまたま乗ったタクシーの運転手の身の上なんて、全く興味がなかった。
 再び、タクシーの中に沈黙が訪れる。
 運転席横の無線機から、時々業務連絡のような音声が流れるだけだった。
 少し行った先の信号が、青信号から黄色信号に変わるのが見えた。行こうと思えば行けないタイミングでもなかったが、タクシー運転手は無理をすることもなくブレーキを踏む。
 タクシーが停まると、タクシー運転手は突然、話の続きを喋り出した。
「タクシー業界に入ってまだ日が浅いので、まだまだ勉強しているところなんですよ」
「……」
「タクシー業界にも色々と隠語がありまして、それも勉強中で・・・。お客さん、“カバンの忘れ物”ってどういう意味の隠語だか分かりますか?」
「“カバンの忘れ物”? ……分からないですね」
 彼は考えるのも面倒だったので、深く考えることもせずに答える。
「“カバンの忘れ物”とは、犯人らしき怪しい人物を載せています、と危険を知らせる隠語なんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「あと、“幽霊が出る”という隠語もあって……」
「……」
「これはどういう意味だか分かりますか?」
「そうだな……。乗客が無銭乗車したとか?」
「いやいや、違います……」
 タクシー運転手はそこで唐突に言葉を切った。その続きをなかなか話さなかった。彼は気になって、バックミラーに視線を送る。
 バックミラーの向こう側から、タクシー運転手が何の感情もこもらないビー玉のような目で、じっと彼のことを見ていた。
 彼はその目を見て、あっと小さく息を呑んだ。
「運転手が精神疾患を患っていて、乗客に危害を加える恐れがある、という意味なんですよ……」
 その唇の端がかすかに吊り上がる。
 タクシー運転手はバックミラー越しに彼のことを見つめながら、不気味に笑っていた。
 
(了)
 

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