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隠語(第4話)


 田代は、夜の街を走った。
 自分がどこに向かって走っているのかも分からなかった。ただ、タクシーから少しでも遠くに離れたかった。そしてあの女から少しでも遠くに離れたかった。あの女から逃げろ。田代の本能がそう命令していた。
 バス通りから離れるように住宅街の中に入っていく。田代はひたすら走り続ける。
 深夜零時を回ったK町はやけに静かだった。仕事帰りのサラリーマンの背中を見ることもなかった。人が絶えた世界のようだった。離れた間隔に街灯が設けられており、その街灯が街の中に薄明かりの世界と暗闇の世界を交互に作り出している。田代の耳には、夜の街を駆ける自分の足音と、そして口から漏れる荒い息遣いだけが聞こえていた。
 どれくらい走っただろうか。
 もうこれ以上、息が続かない。
 そう感じた田代はようやく立ち止まった。自分の膝に両手をつき、ぜいぜいと息も絶え絶えになった呼吸をなんとか整えようとする。そしてようやく呼吸も治まると、田代は自分の周りに視線を巡らせて、辺りをうかがった。
 自分の呼吸以外に特に物音は聞こえなかった。誰かがこちらに近づいてきているような足音も聞こえない。田代はようやくほっとする。
 ここはどこだろう。
 闇の中には、何の変哲もない住宅が並んでいた。
 タクシー運転手をしてまだ日が浅い田代には、その街の光景は全く見覚えがなかった。見知らぬ街の真ん中に、一人ぽつんと立ち尽くしていた。
 田代はタクシー本部にとりあえず連絡を取ろうと思い、自分の上着のポケットからスマホを取り出した。仕事中は使うことを禁止されていた私用のスマホだったのだけど、そのようなことを言っている場合ではない。メモリーからタクシー本部の電話番号を呼び出し、電話をかける。
「はい、N交通です」
 電話口から、中年男性の気だるそうな声が聞こえた。
「すみません、田代ですが、佐々木さんはいますか」
 佐々木は、田代の上司の名前だった。
 電話口の男性は、
「ああ、田代さん。佐々木さんね。少し待って」
 と一言告げたあと、電話の保留ボタンを押したのか、その電話からは場違いに明るい保留音が流れてきた。
 だけど、すぐには電話口に佐々木は出てこなかった。先ほど無線で“カバンの忘れ物”と言い、自分の危険を隠語の中で伝えている。もしかしたら、そのことで何か電話口で誰かと話し合っているのかもしれない。
 一分ほどして、ようやく電話口に、
「佐々木です」
 と佐々木の声が聞こえた。
「あ、突然電話をかけてしまって、すみません」
「そんなことより、大丈夫なのか?」
「え?」
「さっき、無線機で“カバンの忘れ物”って言っただろう。当然、その意味を知ってて言ったんだよな」
「はい。知っています。今はタクシーから離れていて、私は一人です」
「何があったんだ?」
 田代は、先ほどタクシーに乗せた若い女性客について説明した。一通り説明を終えると、
「そんなことで、タクシーを置いて逃げてきたのか」
 佐々木のあきれたような声が受話器から聞こえた。
「そんなことって、あの女、確かにおかしかったんですよ」
「どうおかしかったんだ」
 田代は懸命に、先ほど見た女の異様な雰囲気を伝えようとした。だけど、それは田代の感覚的な部分が大きく、言葉でうまく説明することができない。とにかく、おかしかったのだ。そうとしか言えなかった。だけど、それでは佐々木には伝わらなかった。
「田代さんはまだタクシー運転手になって日が浅いから分からないかもしれないけど、世の中にはいろんな客がいるんだよ。そんなことでタクシーを乗り捨てていたら、タクシーがいくらあっても足りないよ」
 佐々木にそこまで言われてしまうと、もう田代には何の反論もできなかった。
 小さく、「すみません」と言うしかなかった。
「まあ、過ぎたことは仕方がない。ただ、こちらから警察には連絡はしてしまっている。GPSでタクシーの場所は分かったので、その場所を告げたところ、近くの交番から警官が行くそうだ。警官にはお前の方からも謝っておいてくれ」
 佐々木は不機嫌そうに言うと電話を切った。

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