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走馬灯(第6話)

 

 
 目の前で少女が泣いていた。
(どうしたの?)
 言葉をかけようとしたけど、それは実際に声として外に発せられることは無かった。
 部屋の電灯はつけられておらず薄暗い。廊下の蛍光灯の光がかろうじて部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。ただ、私の眼には部屋の隅でうずくまって泣いている少女が小さい頃の私なのだと分かっていた。なぜだか分からないけど、それを一つの事実として私は受け取っていた。
「どうしたんだ?」
 私の背後から声がして、振り返る。先ほどの光景で見た中年の男性が部屋を覗き込んでいた。
「また、泣いているのか……」
 男性は困った表情を顔に浮かべる。そしてそのまま部屋の中に入っていく。少女は男性のことなんて全く気にせずになき続けていた。男性はうずくまっている少女の前に屈みこんで、視線の位置を少女と合わせる。
「さっきも言っただろう。君が悪いんじゃない」
(私が……悪いんじゃない?)
 この人は何を言っているんだろう。どうしてそんな言葉を小さい頃の私に投げかけているのだろうか。
「ここに来たのは、君のせいじゃない。君のお父さんが、君を育てることがうまくできなかったから、だから一時的に君はここで暮らすことになっただけなんだ」
 男性は飽くまでも優しそうな言葉で少女に語りかける。
 私はドアの入り口に立ち尽くしながら、二人の姿を見ていた。
 
(私の……お父さん?)
 私の心の中にぽっかりと空いた空白の空間があった。きっと、私のもともとの父親はその空間に存在していたのだ。だけど、今の私はその空間を完全に消し去ってしまっていた。何が小さい頃の私をそのような抑圧に駆り立てていたのか。
 きっと私は知っている。だけど思い出せない。思い出すのが怖いだけ。だから思い出せないのではなくて、私の中の別の何かが、私がその記憶を引き出すのを邪魔しているだけ。
(ねぇ、何があったの? 小さい頃のあなたに何があったの?)
 私の声は、目の前の二人に届くことは無かった。
 
 男性は少女の手を取る。
「さあ、夕ごはんを食べよう」
 少女はその力に抵抗はせずに静かに立ち上がった。眼は赤く腫れていた。だけどその表情はいつの間にか怖いくらいの無表情になっていた。
 私はその少女の顔をじっと見つめていた。
 そうだ。そうだったんだ……。
 その当時の記憶がゆっくりと無意識の領域から意識の領域に顔を覗かしていく。
 少女だった私は、この施設長である男性の言葉を理解できなかった。
 
 君が悪いんじゃない?
 この人は何を言っているんだろう……。
 私が悪い子だから父から見捨てられただけなのに……。
 
 その言葉を何度も頭の中で繰り返していたんだ。
 私の眼から涙が溢れてきた。
(どうして? どうして今、私は泣いているの?)
 よく分からなかった。
(本当に私を見捨てたのは、私自身だったのかもしれない……)
 そんな思いがわきあがってくるのをとめることはできなかった。
 男性に手を引かれて廊下を歩いていく小さい少女の背中を私はずっと見つめていた。そして頭の中の蛍光灯が消えるように、私の視界がゆっくりと暗闇に閉ざされていった。
 

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