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隠語(第8話)


 逃げなくては。
 窓ガラスに執拗に包丁の柄を打ちつけ続ける女を見つめながら、茫然とした頭の中でそのことだけは認識することができた。
 ここから、逃げなくては。
 この女から、逃げなくては。
 田代は震える指で、エンジン起動用のプッシュボタンを押す。だけど先ほどやった時と同じように、キュルキュルという情けない音を出すだけでエンジンはかかってはくれなかった。
「お願いだから、かかってくれ」
 窓から聞こえるガンッ、ガンッ、ガンッという音に追い立てられるかのように、田代は何度も何度もそのプッシュボタンを押す。だけど何度押しても結果は同じだった。エンジンはかかってはくれなかった。
 最後には、何かに必死に祈りながらボタンを押していた。
 それでも、その何かは田代の願いを叶えてくれることはなかった。
 ミシ。
 自分のすぐ横から、不吉な音が聞こえた。恐る恐る視線を右に向けると、女が執拗に打ちつけ続ける窓ガラスに小さなひびが入り始めていた。
 このままでは窓ガラスが割れてしまう。もしこのまま窓ガラスが割れてしまうと何が起きるのか。自分はどうなってしまうのか。その先の未来を想像するのも恐ろしかった。ただ、先ほど見た警察官の苦悶の顔が脳裏からどうしても消えてくれなかった。その顔は、真っ赤な世界の中にゆらゆらと浮いていた。
 田代はプッシュボタンから右手の人差し指を離す。
 駄目だ。エンジンはかからない。
 それならばと、田代は運転席の横に設置されている無線機を左手で掴む。逃げられないのなら、助けを呼ぶしかない。
 掴む際に無線機の表示が消えていることに気づいて、そのまま左手で無線機の電源ボタンを押す。だけど、その表示は消えたままだった。何度かそのボタンを押すのだけど、その表示が点灯されることはなかった。その無線機は車両から電源をとっていたので、車のバッテリーが上がってしまっていると電源が入らないのも当たり前だった。だけど、半ばパニックのようになっていた田代にはそのことに思い至ることもできなかった。
「くそっ」
 自分の運の悪さを呪いながら、乱暴に無線機を元の場所に戻した。
 そうだ。
 何で、そのことに思い至らなかったのだ。
 田代は上着のポケットから、私用のスマホを取り出した。そして震える指でそのままN交通に電話をかけた。
「はい、N交通です」
「助けてくれ!」
 電話口から聞こえる声に被せるように、田代は叫ぶ。
「え?」
「田代です! 今すぐ佐々木さんを呼んでくれ! お願いだから! 今、襲われているんだ!」
 電話口の相手は、田代の尋常ではない声を聞いて、すぐに電話口から離れたようだった。急いだせいか、保留ボタンを押すのも忘れていた。遠くで、「佐々木さん、田代さんから電話。何か様子がおかしいようです」という声が小さく聞こえた。
 先ほどの電話の件もあったせいか、今度は佐々木はすぐに電話口に出た。
「佐々木です。どうした。田代さん。何があった」
「今、襲われています。タクシーに乗せた、あの女にです」
「襲われている? どういうことだ? 襲われているのに、なぜ田代さんは今、電話をかけているんだ?」
「私はタクシーの中にいます。外にあの女がいます。ドアのロックは何とか全てかけたので中には入ってこれませんが、包丁の柄を窓ガラスに叩きつけて、窓ガラスを割ろうとしているんです。先ほどやってきた警察官も、その包丁で刺されました」
「本当なのか?」
 佐々木の訝しむような声が、受話器から聞こえる。
 女は依然として、田代の目の前で執拗に窓ガラスに右手を振り下ろし続けていた。その度に、ガンッ、ガンッ、ガンッという音が車内に響いていた。
「本当です。この音が聞こえないのですか?」
 田代は左手に持ったスマホをその窓ガラスにかざす。女はその田代の様子を気にかけることもなく、虚な目で田代を見つめながら、その右手を窓ガラスに向けて振り下ろした。ガンッという一際大きな音が車内に轟いた。
 田代はスマホを口元に戻し、
「佐々木さんも、ガラスを打ちつけた音が聞こえたでしょ!」
 と怒鳴る。
 それに対して、佐々木は信じられないようなことを言った。
「何を言っているんだ、田代さん。何も聞こえなかったぞ」

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