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走馬灯(第9話)

 

 
 ふと気がつくと、私はベンチの片隅に座っていた。
 霧が晴れてくるようにあたりがはっきりとしてくる。
 そこはちょっとした休憩所のようになっていて、ベンチが一つとその横に自動販売機が置かれている。目の前には廊下があり、そこを時々看護婦が早足で通り過ぎる。どうやら病院の中らしい。建物自体は小さなこじんまりとした病院のように感じた。ベンチの向かいのある窓の外では、晴れた空の下、のどかな住宅街が見える。
(ここはどこだろう……)
 私はきょろきょろと周りを見回す。特に見覚えがあるような場所ではなかった。そのベンチに座っているのは私一人で、周りに私の知っている人がいるわけでもない。目の前を通り過ぎる看護婦は私の存在がまったく目に入らないように早足で歩くだけだった。また、ときどきはお腹を大きくした病院着を来た女性も通り過ぎて行った。それを見て、ここが小さな産婦人科の病院なんだと知った。
 私はしばらく黙って座っていた。
 
 そのときだった。
 私の目の前を一人の女性がゆっくりと歩いてきた。
 特にその顔に見覚えがあるわけでもない。だけど、その顔を見た途端、なぜだったのだろう、泣きたいくらいの懐かしさを感じた。
 その女性はひどく若かった。おそらく今の私と同じくらいの年齢ではないのか。その女性は他の女性と同じように病院着を着て、同じようにそのお腹は大きく膨れている。
 そして、その女性の顔は私とそっくりだったのだ。
 お母さん……。
 私は母の顔を見たこともなかったし、誰も写真を私に見せてくれたこともなかった。私の周りの人たちは心のどこかで、私の存在を恥ずべきものだと思っているようなふしがあった。それを感じながら生きてきた私は、その周りの思いを刷り込まれるように成長していき、母のことを考えることもなかったし、考えることを意図的に避けてさえいた。だから私は母の顔を全く知らなかった。だけど、目の前をゆっくりと通り過ぎていった一人の女性は、私の母なんだと強い確信をもって感じた。
 私はゆっくりと立ち上がる。そしてその女性の後をゆらゆらとついて行った。
 
 女性はある一室の前で立ち止まった。
 大きなお腹をかばう様にして、スライド式のドアを開く。女性の姿を吸い込んだドアは私の目の前で冷たくしまった。ドアの脇にはその部屋の主の名札がかかっている。そこには、『鈴木美穂』とあった。
 鈴木……、美穂……。
 初めて知る、母の名前だった。
 

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