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『ニューロダイバーシティの教科書 多様性尊重社会へのキーワード』を読んでみた

お久しぶりです。
ものくろです。

今回は、一度『Stammering Pride and Prejudice Difference not Defect』から離れて、最近読んだ中で面白かった本をご紹介していこうと思います。

今回ご紹介する本は、村中直人『ニューロダイバーシティの教科書 多様性尊重社会へのキーワード』、金子書房、2020年。です。

そもそも「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」とは何なのでしょうか?

自分なりにざっくりと説明すると、「そもそも脳(人間)には神経学的に多様性があり、お互いの差、違いを尊重しましょう。」というスローガンのことです。大事なのは、ニューロダイバーシティは障害のある一部の人達だけのものではなく、障害のない人達も含めた全ての人達のためのスローガンであるということです。これは、「男女モザイク脳」*1と同じように、定型発達の人の中にも、神経学的少数派の部分があり、非定型発達の人の中にも神経学的多数派の部分があり、正確には全ての人に神経学的多数派の部分と神経学的少数派の部分が混在している、スペクトラム(連続体)であるということです。

*1 男女モザイク脳については、以下のURLを参照

ニューロダイバーシティ(神経多様性)の始まりは、ASD(自閉症スペクトラム障害)が起源であるということは初耳でした。もともとは1998年にASD当事者のJane Mayerdingさんがインターネットに公開したエッセイ『Thoughts on Finding Myself Differently Brained(異なる脳を持つ自分自身を見つけていく中での随想)』の中で、neuro-diversityという単語が出てきたそうです。(エッセイは無料で公開されています。)
以下そのエッセイの引用です。

I think all of us (humans) will benefit when our societies acquire a wider appreciation of neuro-diversity. The assumption of neuro-universality is very like a form of ethnocentricity. If an anglo person says of another English-speaking person, "She has an accent," that anglo person is assuming her own accent is what's "right," the standard against which all others are measured.

私は、社会がニューロダイバーシティをより広く理解するようになれば、私たち(人間)全員が恩恵を受けると思います。ニューロユニバーサリティ(神経普遍性)という前提は、エスノセントリック(民族中心主義)の一形態によく似ています。もしあるイギリス人が他の英語を話す人について「彼女には訛りがある」と言ったとしたら、そのイギリス人は自分の訛りが「正しい」ものであり、他のすべての人を測る基準であると仮定しているのです。

Thoughts on Finding Myself Differently Brainedの引用文

本書では、ASDの人は神経学的多数派、定型発達(いわゆる健常者)の人とは脳の神経回路が異なっており、異なる文化を持つ人達と考えて良いとされています。ASDの人が持つ文化を、ろう者がろう文化を持つように、自閉文化(autistic culture)と呼んでいます。本書では、自閉文化の具体例がいくつか紹介されていますが、感覚過敏のメカニズムを科学的に分かりやすく説明されていて非常に勉強になりました。他には、ASDの人が全体よりも細部にこだわってしまう(細部を大切にする)理由は、脳内でボトムアップ型処理を行っているからであるという説明も非常に納得のいくものでした。この部分だけでも十分読む価値のある本だと感じました。

本書は、一方的に良い面だけに触れているのではなく、悪い面についてもしっかりと触れている点が素晴らしいです。例えば、「非病理性を強調しすぎることで支援を妨げるという批判」や「文化という発想への疑問」などがそうですが、著者の村中直人さんの誠実な人柄を感じられます。個人的に言えば、「文化=必ずしも良いもの」だとは考えておらず、文化の中にも良い側面と悪い側面があるのが当然であり、また文化ゆえの争いや葛藤が起きてしまうことからも、暗い部分も含めての文化なのだと思っています。ですので、個人的にも自閉文化という表現には好印象を感じます。

ちなみに、あまり積極的には耳にしませんが、吃音のある人にも吃音のある人特有の文化があるように感じています。
例えば、電話だと吃りやすいので、電話をするときは席を外してなるべく人目のつかない場所で電話しようとする(吃る姿を他人に見られるのが恥ずかしいと感じる吃音のある人は多いです)などですかね。あとは、いちいち自己紹介をしたくない(自分の名前で吃る人が多いので、自己紹介の場面を苦手とされる吃音のある人は多いです)などもありそうです。医学モデルとしては、これらは全て社交不安障害(SAD)として治療の対象になると思うのですが、吃音の文化として捉えた場合、こういう特徴を尊重するべきであるという論調にシフトさせることで、吃音のある人も堂々と自分らしさをオープンにできるのではないでしょうか(安易に「文化」という表現を多用してしまうと、一部の人から怒られそうですが(笑))。

まだまだ語り足りないのですが、今回はここまでとします。

本書の内容は、以下の通りです。

はじめに

第1部 ニューロダイバーシティとは何か?

 第1章 ニューロダイバーシティという言葉の基礎知識
 第2章 ニューロダイバーシティに関する議論,批判

第2部 ニューロダイバーシティ視点の人間理解

 第3章 脳・神経の仕組みが異なるということの臨床的理解
 第4章 脳・神経の違いが生む異なる体験と文化

第3部 ニューロダイバーシティの諸側面

 第5章 『教育』×『ニューロダイバーシティ』
 第6章 『働く』×『ニューロダイバーシティ』
 第7章 『家族』×『ニューロダイバーシティ』

おわりに 対人支援者,教育者がニューロダイバーシティを学ぶ意味

あとがき

最後に注意点として、本書は題名に書いてある通り、あくまでも「教科書」であり、具体的な対応策については特に何も触れおりませんのでハウツー本として読まれる方にはオススメできません。

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追記
僕は大学生の頃、個別指導学習塾でアルバイトをしていました。当時所属していた大学の研究室では、計算式を省略せずに書き下すことを推奨されていたこともあり、塾で数学を教える際にもできるだけ計算式は明確に書くように指導していました(テストで部分点をもらいやすくするためという目的もありました。)。しかし、この指導法で上手くいく生徒もいるのですが、中には(特にデキル子)解法の計算式は上手く言語化できないが、答えだけは分かるという生徒もいました。アルバイトの講師としては、答えだけ合っている場合には点数をあげられないと考えていたのですが、例えば動作性IQ>>言語性IQ(かつ高IQと仮定する)の場合には計算式よりも視覚的なイメージで問題を解くことを得意とする場合があります。そのような生徒もいることを考慮すると、きっとその生徒にとっては僕の教え方は大変分かりにくいものだったのではないかなと罪悪感を感じます。諸事情によりスーパーマン🦸‍♂️🦸‍♀️でない限りは、なかなか柔軟に指導方法を変えることは難しいように思うのですが、それでも画一的な方法には、より多くの人を救えることができる一方で、救いきれずにこぼれ落ちてしまう人も多いのだろうなと感じます。


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