7.偽名 →
かつて関係者全員の本名を知らないような職場にいた。今でも末席を汚している性風俗店(SMクラブ)の話である。性風俗に限らず水商売も同じような感じだろう。
個人情報保護方針ができてからは、町の歯医者に勤める歯科助手に名札がなかったり、名札がないと不自然で不便なコンビニや居酒屋のスタッフは、確かめたわけではないが、それこそ偽名を使っているのではないかと疑いの眼差しを向けてしまう。いずれもストーカー対策として有効なのかどうか。
風俗店に在籍しているオンナノコは当然、源氏名を使う。一緒にごはんを食べに行ったり、洋服を買いに行くような間柄になっても、控室で深く濃い相談までしていても、お互いに本名を明かさない。頑なに隠しているわけではないが、本名を知らなくても困らないのだ。
店に来るお客さんのほとんども偽名である。だいたいが田中、鈴木、佐藤、高橋あたりから選んでくるようで、店の顧客名簿は「日本に多い名字ランキング」のようになっていた。
これだけ同じ名前がたくさんいても、ヒトそれぞれに特徴があるから意外と間違いは起こらない。特徴の一つ目は電話で予約するときの声。次に、見た目。最後が性癖である。
受付スタッフは固定しているので、お客さんの電話の声をだいたい覚えている。たとえば、「田中」と名乗ったヒトの声で「どの田中さん」か判ったとする。そして希望するプレイ内容をざっくり聞き取ることで、「その田中さん」として確定できるのだ。さらに名簿を見て、いつも指名しているお気に入りのオンナノコが(一人とは限らないが)合致すれば100%間違いない。
常連になると「高橋です、どもども。いやぁ、暑いっすね。きょうってケイちゃん来てますか?」みたいな電話をしてくる。受付スタッフはホワイトボードの出勤予定表を見ながら「ケイちゃんね、17時頃には入ると思いますよ。お待ちしてます」などと応対している。
店に通っているうちに受付スタッフやオンナノコと仲良くなり、嬉々として仕事のグチや趣味の話までしてしまうお客さんが少なからずいる。そうすると本名以外の情報とカラダの隅々までも知ることになり、それをプレイのスパイスに応用したりする。
「まだ明るい時間からこんなことしてるの、おまえの上司に言ってもいいんだよ?」
「ひー。そ、それは、やめてくださひ」
そのうち上司の顔を見たら興奮するように調教できるかもしれない。
電話をかけてくるのはお客さんばかりではない。問題ない相手としては広告代理店、スポーツ新聞やテレビ(深夜番組)の取材依頼。あやしいのは、ケーサツ屋さんの風俗担当である生活安全課による匿名での様子伺いや、同業の偵察と思われる者が客のふりをしていること。しかし、時間帯や話しぶりなどから、相手がどういう業種かだいたい判るという。
こういう場合は無下にならない程度にあしらって核心にふれず、人当たり良さそうに電話を終わらせるそうだ。
広告を見て、ひやかしの電話をかけてくる者にたいがいMっ気はない。あるのは「間違ってオンナノコが電話に出ないかなぁ」という健全(?)なスケベ心である。
うっかり電話をとるとイタズラ電話の代表作「どんなパンツ穿いてるの? うへへ」といった質問に遭うが、気の強いコばかりなので、逆に餌食にしてしまう可能性もなくはない。とは言え、なにもタダで電話プレイをやってやる必要もない。
このように機転が利く熟練の受付スタッフによって、オンナノコと店の安全が守られているのである。
さて予約もなく、いきなり来店するお客さんについては受付スタッフが顔を見ればわかる。しかし、受付とオンナノコの待機室はパーティションなどで仕切られているため、オンナノコからは顔が見えない。
お客さんを部屋に案内して戻ってきた受付スタッフが、仕切り越しに声を投げる。
「ルカちゃ〜ん。鈴木さん、80分ね」
「あ〜い。てか、どの鈴木さん?」
「ヒゲの」
「りょ〜か〜い」
と、こんな具合だ。
見た目に特徴がない場合、やはりプレイ内容がモノを言う。
「ヨウコちゃ〜ん、山田さん19時に来るってよ」
「はーい。山田さんって?」
「縛りで、電気あんまのひと」
「はーい。山田さんかぁ、ちょう久しぶりかも」
「ブーツ履いてってやって」
私はヒトの顔と名前の覚えが良いほうなのだが、たまに似ているタイプを混同することがある。会社員時代には名刺交換という風習があるので、もらった名刺の隅または裏側にその人物の特徴を一言メモしていた。時間の経過とともに忘れることもあれば、同僚に聞かれたときにも便利なのだ。
今回の執筆の参考に、と昔の名刺ホルダーを開くと、ある女性の名刺に「うすいさちよ」と書いてあり、ン十年前が瞬時にして蘇った。時空を超える便利さである。
たしか2回目のプレイのときだった。受付で名前を聞いても思い出せず、当然 名刺もない。そのままプレイルームへ行って顔を見て挨拶しても、申し訳ないがまだ曖昧模糊としている。(あ───、どんなんだったっけかなぁ)と考えながら、当たり障りのないことをしゃべって時間をかせぎ、適当なタイミングでお客さんに脱ぐように促した。
「あっ!」
その裸体を見た瞬間、つまびらかに思い出したのだ。これも一目瞭然の類なのか。誤用だろうとは思うが、とにかく前回のプレイから話した内容までも芋づる式にありありと蘇ってきた。
しかしS女の立場としては、今頃になって思い出したのがバレてはカッコがつかない。いかにも最初から覚えていたように振る舞うしかないのだ。
「おまえは✕✕✕が敏感なのよね。こないだ来たときに『自分でもいじってる』って言ってたわね? それでこんなに……」
「うわぁ、恥ずかしいですぅ。でもサヨ様、ぼくのこと覚えていてくださったんですね。ありがとうございますぅ」
涼しい顔をした私の足元でそのM男は額を床にこすりつけ、脱ぎかけた仙台四郎みたいな姿をして涙を流している。その後、また別の涙を流すことにもなるのだが。
なお、プレイのときに服を脱ぐのはお客さんだけ。つまり、CFNM「Clothed Female, Naked Male」、「着衣の女と裸の男」というフェティシズムの一種だ。
プレイ内容はヒトによるが鞭、蹴り、ビンタ、etc.の肉体労働と言葉責めの頭脳労働が半々くらいか。中には9割が言葉責めというケースもあったり、オンナノコにプロレス技をかけられるのを希望するM男もいたりして実に多種多様である。
ソープランドと掛け持ちしているオンナノコは、「SMってアタマ使うからめんどくさ〜い。肉体労働だけのほうがラク〜」と話していたが、もちろんこれもヒトによる。
話を戻そう。あだ名の場合は本人が──たとえば、気に入っている谷崎潤一郎の小説などからもらって──付けているか、または古くからのM男だと、どこか別の店の女王様にかわいがられて付けてもらったものを長年 大事にしているケースもある。
仮に、お客さんの約8割が偽名やあだ名を使っているとして、残りの約2割は本名なのか。それも偽名かもしれない。まぁ、どちらでも構わないのだが、極端なことを言えばプレイ中は人間以下の奴隷なのだから、番号だけでも良いような世界ではある。
今のようにPCやインターネットが一般的ではなかった時代、予約や問い合わせはもっぱら電話で行うのだが、それを周りの誰かに聞かれたり、どこから電話しても恥ずかしくないように、ありふれた偽名を設定するのは人の常。
ただし、前述のように「こんなに変態な自分をかわいがってくださる女王様に付けていただいた大事な名前」が、口に出して恥ずかしくないものとは限らない。
これは、どこかで名乗るたびに羞恥心を刺激する永久機関ともなり得る、究極のプレイなのでは! 羞恥に身悶えながら、愛おしく誇りに思って名乗るのがM男の心情、あるいは信条か。
オンナノコの源氏名の付け方は一般的に、かわいいとかカッコいいのがいいとかで考えられている。中には掛け持ちしている料飲店(主にキャバクラ)で使っている名前と統一するコや、本名と かけ離れてしまうと呼ばれたときに自分のことかわからない、というオンナノコもいる。その場合、たとえば本名が「ユミコ」なら源氏名を「ユミ」にするなどだ。
「なんでもいい」と言えばオーナーが付けることになるが「ラブ」とか「ローズ」といった、かなりレトロな響きになってしまうのはご愛嬌。
ちなみに私の源氏名「夏樹小夜子」は、昔から憧れていた山口小夜子から頂戴した。ミステリアスで翳がありながら未来的でもある、そんな小夜子のイメージをいつか纏えたら、という思いで名付けて21年も過ぎた。
私は、陽より陰、太陽より月、金より銀が好きで、「魔女っ子メグちゃん」で言うところの「ノン」派だが、見た目と頭の中、憧れと現実は乖離するものかもしれないという認識はあるし、自覚もある。
そして奇しくも、あす8月14日が山口小夜子の祥月命日にあたる。
合掌
じゃ、次!「い」
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