『日曜のキルケゴール』

 よく晴れた日曜の春の午後、お隣にキルケゴールが引っ越してきた。私はそばを食べていた。冷たいそばだ。豚肉があったので、それをめんつゆで煮て、あったかい豚そばにして食べるつもりだったが、豚肉は腐っていた。だからただの冷たいそばにした。指定された時間よりも少し短めに茹で、ザルに上げ、きりっと水で〆る。わさびときざんだネギを用意して、濃いめんつゆで食べる。美味しい。そばは噛まずに飲むんだ、なんて言っていた叔父のことを思い出す。もう死んだ。いい人だった。

 キルケゴールは引っ越しの荷解きをしながら、フランク・シナトラを掛けている。ほお、と思った。バッハとかじゃないのか。もしかしたらキルケゴールという人は、案外弱っちい人なのだろうか。まさか。あのキルケゴールだ。そんなわけはない。キルケゴールが掃除機をかける音がしている。ゴロゴロ、というプラッティックのタイヤの音もする。キルケゴールの使っている掃除機は、ハンディではなく、タイヤのついた、昔のタイプのやつであることが分かった。ほお、と思った。腐っていた豚肉を捨てなければ、とそばを食べ終わった私は思った。

 レジ袋に豚肉を突っ込む。ついでに賞味期限を一週間過ぎていた牛乳パックも中身を流しに捨て、入れる。冷蔵庫が見違えるように歓んでいる。私も嬉しい。ゴミ捨て場は歩いて徒歩一分の場所にある。青いカラス防止のネットが掛けられている。私はそのネットを触るのが嫌いである。不潔なのだ。雨の日で濡れている日なんて最悪だ。きっとカラスは、このネットがめくれないからゴミに手出ししないのではなく、私と同じくこのネットの不潔さが理由なのだろう。

 悪戦苦闘すること約3分。往復の2分も足して計5分を要してゴミ捨てを完了し、アパートの202号室に戻る。と、お隣の203号室、つまりキルケゴールがやってきた部屋で何やら口論が聞こえる。扉が開いているので、丸聞こえだ。

キルケゴール「そんなこと言ったって、こっちはもう正式なビザも取ってここに来てるんですよ」
区職員「ビザだかピザだか知りませんが、江東区の条例なんです」
キルケゴール「理解不能です」
区職員「あんたが阿呆だからわからないんだろう」
キルケゴール「阿呆はどっちだ。わかりました。表へ出なさい。木っ端微塵にしてやりますよ」

 ただごとではないと思った私は、部屋の鍵を開ける手をとめ、お隣をそっと覗く。そこには区役所の職員らしき男女二人とキルケゴールがいた。私が「どうかされましたか?」というと、キルケゴールは私を見て、

「こいつらが私にこの部屋から出ていけというんです」と言った。

 なんとも。これは大変だと思った。区役所の人間たちは、江東区の条例で、外国人が単身で賃貸物件に居住するには、ビザ等の申請だけではなく、江東区長の許諾が必要であると私に告げた。阿呆だと思った。話をすると、移民対策らしく、条例で決まったことですので、の一点張りだった。私は弁護士である。それを告げ、今度焼肉食べ放題に行くついでに、憲法訴訟でもしましょう。一瞬で勝てますよ、とキルケゴールに言った。するとキルケゴールは「Tak skal du have」と言ったものの、その後、すぐ、「憲法訴訟もいいですが、今は雨風をしのげる寝床がほしいです」と流暢な日本語で言った。私はキルケゴールを我が家に招き、私とキルケゴールは二人で暮らすことになった。キルケゴールはお礼にと、高菜の漬物とフランク・シナトラの「Autumn in New York」が入ったCDをくれた。窓の外には鳩がいた。

 春の日曜の昼下がりのことであった。

(おわり)

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