『バッハ的な会計をする人』

 会社員だった当時、僕は著作権処理に関する仕事をやっていたが、その隣に座っていた大仁田さんという女性は、会計の仕事をやっていた。各部が持ってきた請求書をじっと見て、それからパチパチと、パソコン画面に表示された表のしかるべき部分にしかるべき数字を打ち込み、なにかしらの結果が数字として表示されていた。

 大仁田さんはいつもイヤホンをしていた。イヤホンをしていたから、人と話すのが嫌いなのかというと、そういうことではないようで、下の階の自販機で会ったりなんかすると、いつも、「今日は、アイスティーじゃないんですか?」なんて、他愛もないことばをかけてくれた。

 ではなぜ、彼女はイヤホンをしていたのか。彼女は、バッハを聴きたかったのだ。彼女はバッハが好きだった。いや、好きだった、なんてことばでは足りない。あまりに足りない。彼女はバッハに恋をして、文字通り、焼き尽くすような想いで恋焦がれていた。彼女にとってバッハは、世界の全てだった。

 ある時は、『ゴルトベルク変奏曲』を、またある時は、『平均律クラヴィーア曲集』や『無伴奏チェロ組曲』を彼女は聴いた。でも一番好きなのは、『フーガの技法』だった。

彼女はそれはそれは熱心にバッハを聴いていた。彼女の精神はそのほとんどが耳に注がれ、そして残った微かな精神を使って、彼女は会計の仕事をしていた。

 しかし、上司はそのことについて、彼女に小言を言ったりしなかった。彼女の仕事にはバッハが不可欠だったからだ。さらに言えば、上司は、彼女のバッハ的な会計に心打たれていたのだ。僕自身もまた、彼女のバッハ的会計に魅了された一人だった。

 ある日の夜のことだった。小雨の降る、秋の夜だったと思う。全ての請求書を片付けた彼女は、そっとイヤホンを外した。僕がそれを見ていると、彼女は僕の視線に気づいて、ぱっちりと目が合ってしまった。この際だから、と思い、僕は思わず、聞いてみた。

「なんでバッハが好きなんですか?」

 彼女は微笑んで、でもはっきりと、毅然と言った。

「わかりません」

 彼女の髪の毛はくせっ毛で、湿度の高いその日の夜は、少しだけバッハのあのカツラみたいになっていた。僕はそれを見て、とても素敵だと思った。

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