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日記:囚

2024.02.02

2月になった。
毎年12月の寒さを迎える度に、「いやいや、2月の寒さなんてこんなもんじゃないから」と思ったりするのだが、意外とそうでもなく、最近は少し暖かくなって来ているような気がする。まだまだ寒いけど。
春はもう、すぐそこにあります。

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いつだったか、突然道で知らない人に話しかけられた。
「雨、降ってますよ。」と。
たしかに、雨はぱらぱらと降っている。そして、私の手には粗雑に畳まれたビニール傘。
きっと、雨が降っているのに傘を差していなかったから、(この人は雨が降っていることに気づいていないんだ。)と思われて、そう言われたのだと思う。
しかも、初めは話しかけられたことに全く気づかずに素通りしたところを、わざわざ後ろから肩を叩いてまで知らせてくれた。
3歩も歩いたら雨が降っていることに気づけるぐらいの、ぱらぱら。
きっとこのぐらいの雨だったら傘を差さないという人は3人に2人ぐらいはいるんじゃないかと思えるぐらいの、ぱらぱら。
別に嫌な思いをしたわけでもないし、その人に対して不快さを感じたわけでもない。ただ、その時は少し機嫌が悪かった、というか気分が落ちていたので、「あ…はい。」としか言えず(気分が落ちていなくてもこのぐらいのことしか言えないのかも)、そのまま傘を差すことなく、駅まで向かった。

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リワークを始めてから1週間が経過した。
朝も夜も、毎日なんとなく通り過ぎて、何もできない自分、やる気のない自分に嫌気が差して苦しかったから、リワークを始めることによって、少しはその落ちた気持ちが改善されるかと思っていたけど、そこまででもなかった。ただ、疲れが気持ちよく感じたりもする。まだ5回しか行っていないから何とも言えないけれど。
「とりあえず、今は目の前にあることに集中する」ということを何度誓っても、気づいたら頭から遊離してしまっている。その誓いは、頭と天井、あるいは頭と青空の隙間に、ずっとふわふわと漂っている。
リワークに行くことが辛いとか、しんどいとか、今のところはそういったことも特段感じているわけではない。まだ集中力を取り戻すために行う簡単な作業(四則演算とかクロスワードとか漢検の問題とか)ぐらいしか行う段階にいないから、こういうものに頭を使うことの気持ちよさみたいなものを懐かしく思ったりする。しかし、リワークに通う前からずっとある不安、恐怖、焦り、自分に対する絶望、怒り、自意識、無力感、その他諸々は、強弱はあれど今もなお残っていて、行き帰りの移動時や休憩時間になると、そういった感情に苛まれることが多々。
やはり、感情の抑制には集中と没頭が何よりも効くのだろう。

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そうして、当たり前のことに気づく。
こういった気持ちは、復職すれば(一切とは言えないが)なくなるということ。
もしかしたら、こういった言葉をnoteやその他の場所で呟く度に、「いや、そんなこと思っているなら、早く復帰すればいいのに」と思っていた人もいるのかもしれない。
休み始めたばかりの頃は、やっぱり仕事に対する不安や恐怖、罪悪感が強く、その一方で暫く休めるということに安堵していた。しかし、6ヶ月目を迎えた今、そういった気持ちは残ったままに、さらに自己嫌悪が増大している。
自分のことをなかなか肯定してあげられない自分が、本当に苦しい。
何をやっても、どう考えても、間違っているような気がしてしまう。
前回の日記でも書いたけど、きっと過去のことに執着してしまうのは、今の自分を肯定できないからだ。自分が肯定に値する行動を全く起こせていないというわけではない。例えばリワークだって、不安を抱えながらも新しく挑戦したことなわけだし。ただ、そういった自分のことを肯定する機会、褒めてあげるチャンスを尽く逃している。というか、やり方が分からない。自分のことを認めてあげるって、どういう感覚だったっけ。それができたことって、あったっけ。
元々自分のことを褒めるのが苦手で、どんなに良い結果を残しても満足するのが難しい人間だった。けれど、どこか自分のいいところも分かっていて、そういう点では自分のことを認められたし、そんな自分を好きになれていた。今はそういったものも薄れてきている気がする。
でも、やっぱり、こういう負の気持ちも、復職すれば、きっと治まる。

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先日『変身』で知られるフランツ・カフカに関する本を読んだ時も、だから共感の連続だった。大抵カフカの悲観っぷりは、《こんなにも小さいことでいちいち悲観していた彼》を物珍しく、そして面白がるように語られる。【彼ほど人生の物事に悲観していた人物はいない】【彼はネガティブの天才だ】と言うことによって、「だからこの本を読んでいる悲観たっぷりの君は、全く大丈夫なんだよ。」というような押し付けがましい励ましを受けたような気になる。でも、私はカフカを面白がることも、その励ましをありがたく受け取ることもできない。ただただ、親近感を覚えるばかり。自分のネガティブさを誇示したいわけではないのだけど。

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そもそも、悲観というものを良い・悪いで捉えていないつもりでいる。
楽観的でいた方が、きっと人生の幸福度は高いと思うけど、悲観的でいるからこそ、気づける幸せもきっとある。悲観を悪いものだと捉えることに悲観は現れていて、悲観を受け入れることこそがある種の楽観なのだと思う。
だから、私は悲観的な私を悲観していないつもりでいる、つもりでいたのだけれど、やっぱり悲観ばかりしていると、心がしんどくなる。もちろん、好きで物事を悲観的に捉えているわけでもなく(もしかしたらたまにそういう時もあるかもだけど)、かといって、じゃあ悲観するのを止めましょうと言われて止められるものでもない。だから、苦しい。
悲観も楽観も捨てて、受容と諦めを得たい。

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名古屋駅から家まで歩いたのは、昨日が初めて。
電車を使えば、時間にして45分、お金にして200円。
徒歩となれば、時間にして90分、お金にして0円。
節約以外に歩く理由があったのかは分からない。
「散歩って気持ちがいいな」なんて思う余裕もなかったし、「なんとなくそんな気分だった」というわけでもない。ただの、意地。
イヤホンでandymoriの『ファンファーレと熱狂』をシャッフルで聴き、kindleで『和菓子とアン』(坂木 司)を歩き読みする。
思いのほか、有意義な時間になった。

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安心が欲しい。



~Today's Song~
アムスフィッシュ / サカナクション



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