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美脚論 第1講 美しい脚は個性的である

さて、これから美脚論を始めるが、とりあえずは下に画像を示した。

美脚論は、美しい脚の画像を楽しむことが本来の目的なので、画像が中心となるだろう。

「ですます調」の丁寧な語り口が、ブログ等では基本となっているようだ。

しかし、冗長に過ぎると思うので、「である調」の常体とする。ネットの文章は、丁寧語が中心なので、慣れるまでは大変だろうが、まあ、慣れてくれ。


画像はすべてオリジナルのもので、著者が完全に著作権を保持している。画像にときどき見られる「sakuramakoto kichijoji」は私のハンドルネームである。


では、そろそろ始めるか。


美しい脚は個性的である。

美は普遍的な感情であるが、しかし、その美を感じる対象物はその場限りの一回性の出来事である。人は、美をなんとなく空漠と感じることはない。明快な対象物に対峙して、その衝撃から、美を感じるのである。

ここでいう美は、もっぱら視覚的なものを言う。音楽を聴いたりや詩歌を読んだり、稀に哲学的著作から美を感じることがあるだろうが、それは別問題である。

美は、そのほとんどを、視覚に頼る。美しい人物は論じることができるが、美しい生き方、は語ることができない。

美しい食べ方、といったことでも、食事作法の見た目が美しいからであり、美はあらゆる場面(ほらここでも、場面 であるから視覚に依存する)で、見ることができるものであり、そうでなければならない。


美しい脚は、人間の身体に依存する。人間の身体は生き物であるから、時間に制約される。昨日美しくても、今日はそうではない。または、明日の脚はもっと美しいかもしれない。あるいはその逆であるかも。

世阿弥は、時分の花と言った。なんとしたるも幽玄な少年の美も、名人枯淡の美も、また、その時々の一回性の花である。

では個人の脚についても、当該個人特有の唯一無二の脚であり、その脚の美は、その瞬間限りの一回性のものである。記録としての撮影行為は必須である。


私が脚の撮影を始めたのは、急に素人絵を描く必要があり、モデル探しが面倒なので、自分で代用したのである。

そのために、一種のコスプレをしたのであるが、それで十分に目的を満足できたので、趣味を超えて、美的研究の一環として、撮影行為を続けている。

被写体としての対象の脚を、自他ともに美しいと判断できたのである。もっとも、美の判断は個人の感覚に作用されるから、すべての人にとって、この講義で示す脚が、十分に美しいかどうかは不明である。しかし、他の試験的な調査で、不特定多数が美しいと判断しているので、あながち間違ってはいないだろう。


私はモネを美しいと感じる。ピカソはうまいと思うが美しいとは思はない。この感想は、他者の多くも同様らしいので、画家の作風の好き好きは別として、一般に、モネは美しい。ピカソはそれほどではない。

私の脚もまた、他者の多くが十分または多少は美しいと感じている。つまりは、当該脚が美しいことは、偏狭なナルシシズムではなく、ある程度の客観性がある。

この美脚論において、すべての画像が私の脚であることには、著作権を保持していること以外にも、このような理由があるのである。







上記の画像、これを私は作品と呼びたい。撮影画像を、絵画作品とおなじく平面的視覚芸術として考えたいからである。

これらの作品を見たあなたは、どう感じただろうか。美を感じただろうか。

おそらくだが、多少は、きれいだとか、美しいだとかは、感じたことだろう。

「私」という言葉を使わずに、「ネットで拾った美脚画像」、とか適当に書けば、もっとあなたは美を感じたことだろう。本人であることを本人が話せば、嫌われるのである。私は、例示として画像を提示するべきだったか。

違うのである。そんなことに忖度するようでは、研究はできない。私の撮った私の画像であるから事実の重みがある。

画像作品を見た人に、美の感情が全然生まれないような被写体なら、そもそも撮影なんてしない。

フェルメールは、単調で質素な生活の婦人を描いた。あれほどの傑作が生まれたのは、つまりは、対象に美を感じて、その美をよりいっそう純化して巧みに描いたからである。

私のような素人撮影(すべてカメラ任せのオート撮影である)でも、撮影技能や絵筆と言う間接物が入らないので、だからこそ、対象の美は、そのまま現実として単純に写る。

これが次回言うであろう、美は対象に依存する。特に撮影画像は、被写体に完全に依存する。ということである。

本日はここまでとする。


次回も、同講義室であるので、休まぬように。



 

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