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親父は僕を愛してた。でも僕は親父が嫌いだった。

親父は仕事人間だった。
そして典型的な昭和の頑固親父だった。

ほとんど家にいることはなく
たまに顔をあわせても
長時間正座をさせられ
勉強の話か精神論の話…。

まれにキャッチボールなんかを
やってくれることもあったけど
上手く捕球できなきれば
ぶん殴られたし

家族で外食をしたって
メニューは強制的に
親父に決められた。

平日に僕らが寝る前に
親父の車のエンジン音が聞こえると
憂鬱な気分になった。

僕は親父が嫌いだった。

そんな気持ちを察することもなく
自分の気持ちを一方的に
押し付け続ける親父。

できるだけ親父と同じ時間を
過ごしたくないと常に
感じていた小学生時代だった。

しかし、
僕の思いとは裏腹に親父は違った。

僕が大学進学を機に
家を出ることになり
部屋を掃除していた時だった。

僕と親父の名前の下に
「交換ノート」と書かれた
子ども向けノートが
荷物の中から見つかった。

ノートを開くと
「小学校入学おめでとう」
から始まる親父の文字が
書かれていた。

親父が書いたページの隣に
僕が書くようにされていたけど

一冊丸々、
左の親父のページにメッセージが
書かれているだけで

右ページは全て白紙のままだった。

こんなノートの存在は
すっかり忘れていたから
無骨な親父がこんなマメなことを
していたことに驚いた。

僕は親父のことが嫌いだった自分が
はずかしくなった。

彼は彼なりに僕との繋がりを求めて
一生懸命だったことに気づかされた。

不器用な男だ。

僕自身も親となった今
あんなに怖かった親父の中に
不安や弱さが隠されていたってことが
痛いくらい分かる。

一方通行の交換日記は
子どもとの関係をどうやって
作ろうか悩みながら

いつか伝わることを信じて
夜遅く仕事から帰った後
毎日継続した愛の証だった。

僕の息子ももう小学生。
当時の僕と同じくらいの年頃だ。

親父と僕のようにならないために
できるだけ一緒に過ごす時間を
大切にしている。

僕は親父のような父親にはならない。

ただ、まだまだ親父が注いでくれた
愛情に比べたら僕は何もできていない
気がする。

僕は今でも親父に気を遣う。

直接、嫌いだなんて
言ったこともない。

ただ親父が死ぬ前に

「ありがとう」
「尊敬してる」


って言葉は絶対に言ってやろうと
思ってる。

はずかしいけど親父は
絶対に口に出さないだろうから
僕から言うしかない。

あの時のノートの返事の代わりに…。


学校の現状を知っている人間が 教育について行動をおこしていかなければいけない。 子どもたちの学校とは異なる居場所を 作っていかなければいけないと活動しています。 記事を読んでいただき、 僕の思いに共感・賛同して いただけるようであれば サポートしてくださると嬉しいです。