「アンサンブル」と私

高校時代大好きだったアンサンブル。一貫校のため中高合同で部活(吹奏楽、担当楽器はクラリネット)を行っていた中で、高1の年はパートの中2から高2までの9人全員で然るべき手続きを踏んで9重奏で高校の部のアンサンブルの大会に出た。また、高2の年もパートの中3から高2までの8人全員で同じ大会に8重奏で出た。中2の5人も全員で中学の部に5重奏で出た。間違いなく、アンサンブルはパートの「みんなで取り組むもの」だった。

大学に入って以降、何かこの「アンサンブル」に苦手意識を抱いてしまうようになった。楽団・パート全体の規模が大きくなり、アンサンブルはパートの「みんなで取り組む」ことが難しくなった。私にとってはやりたい曲を持つ人が、人を選んで声をかけて「選ばれた人で取り組むもの」になってしまったように感じた。もちろんこれは良いことでもあり、規模の大きい楽団で普段はできない木管五重奏などに取り組むことができた。でも、私は「選ばれた人」にはならないことがほとんどだった。前述した木管五重奏は大体私が声をかけ始めたものであったし、それ以外のクラリネットアンサンブルは自分には声をかけられず、気づいたら他の人達が練習を始めていたことばかりであった。

自分が「選ばれなかった」、という事実は異様に心にきていた。おそらく最初に発案した人は大したことを考えずにメンバーをピックアップして声をかけたのだろう。でも、その中に私はいなかったのが事実。言い換えれば、言い出しっぺの人の頭に候補として浮かぶほど私は楽器が上手くないということなのではないか。奏者として信頼されていないのではないか。自分の演奏に自信がない私にとっては、この事実が自己嫌悪のアクセルになるのは簡単なことであった。

このような経験を繰り返した結果、私は「アンサンブル」に苦手意識を抱いてしまうようになった。ある程度自分の技術に自信がついてきた最近でも、この思いが完全に拭いきれずにいる。

よくよく考えてみたらしょうもない話である。アンサンブルの本質は語義から考えると「組み合わせ」で、2本以上の楽器が組み合わさる時にできる(1本ではできないという意味での)独特な音楽を作り上げるということであると思う。そんな誰かに選ばれる/選ばれないの話ではないはずである。

でもそう思うがこそ、誰に選ばれる/選ばれないを考えることもない「みんなで取り組む」アンサンブルが恋しくなってしまうのかもしれない。人間の心は複雑怪奇だ。あと、それで悩む暇あったらより上手くなるために楽器を練習したほうがよさそうだ。

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