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ガガのお尻、パチーノのお腹、レトの頭。「ハウス・オブ・グッチ」は見た目がすべて。

リドリー・スコットの映画は姿かたちが大切。

冒頭、主人公のパトリツィア(レディ・ガガ)が車から降りてトラック運転手たちの前を、お尻を揺すりながら平然と歩く。
ほこりっぽい画面の中に彼女の豊満なシルエットが浮かび上がる。
大きくて丸いお尻を支えるのは極端に細いピンヒール。
全身から悪女の予感が溢れている。

いや、最初はそうでもなかったかもしれない。
イタリアならどこにでもいそうな、陽気でかわいい女性。
しかし、パーティで出会った青年マウリッツィオがグッチ家の御曹司だと知った瞬間、彼女の本能が目覚める。
大きく見開かれる目。卵のように割れて中から異生物が飛び出してきそう。

見た目がそのまま内面という分かりやすさ

こういう名家の内幕暴露ものは、はじめの内は人間関係がわかりくいものだが、この映画にはそんなところがない。
出てくる人物、全員見た目通りだから。

背の高いアダム・ドライバーは見た目通りの木偶(でく)の坊。
頭はいいが、口先だけで信念がない。
枯れ木のような佇まいの父親、ジェレミー・アイアンズは美的センスに優れているが、ビジネスはまったくダメ。
対照的にジェレミーの兄を演じるアル・パチーノはやり手の経営者。
びっくりするくらい腹が出ている。文字通り欲の皮が突っ張っている。
その息子がジャレッド・レト。自称デザイナー。
本人は才能があると信じているが、誰からも評価されない。
中年になっても自分を客観視できない幼児性が、キューピーみたいなま~るいはげ頭と半端に長い髪の毛に表れている。

心理描写とか葛藤とか、そんなややこしいものはない。
全員、見た目通りの行動をして、その姿にぴったりの発言をする。
特にガガ、パチーノ、レト、それぞれの尻、腹、はげ頭が印象に残る。
映画全体の画づくりは抑制が効いているのに、彼らの姿かたちはなんか過剰だ。

レトの扮装には6時間かかるという。
配役を知らなければ、レトと気づかないほどの変貌ぶり。
そこまでして姿かたちにこだわるのはなぜだろう。

リドリー・スコットは何を見せるべきかがよく分かっている

カメラも執拗にガガのお尻を狙う。
ガガが初めて、義理の伯父になるパチーノと出会う場面。
靴選びでかがみこむ彼女の背後にカメラが迫る。
巨大なヒップが画面を圧倒する。そのカメラはそのままパチーノの視点。
パチーノの満面の笑顔は彼らが同類であることを示すかのよう。

こういう分かりやすいキャラ設定は通俗的と言って、物語に深みがないと評されることが多い。
しかし、リドリーの映画は違う。
ありとあらゆる映像技術を使いこなす彼は、
文学的演劇的な内面性、メソッドなど鼻もひっかけない。
背景の美術、服装、話し方、所作など
目に見えるものすべてを駆使して、見事に描き出したのは、
ブランドと名家の空っぽさ。

この作品に内面を持たせようと思えば、主人公の生い立ちや当時のイタリアの社会状況をもっと描くべきだろう。
しかし、リドリー・スコットにそれを求めるのは見当違いというやつだ。

イタリアの話なのに、主演俳優たちは英語でしゃべり、あいさつとかだけイタリア語がまじるいい加減さ。
パチーノがいきなり日本語を話しだして驚いたが、
これもグッチに来る日本人を手玉にとるための方便にすぎないのと同じ。
描きたいのは彼らのリアルな苦悩ではなく、滑稽さだから。

グッチの人たちはこの映画をどう見たのだろう?

私をグッチ夫人と呼びなさい

この映画を「エイリアン」(リドリー・スコット:1979年)にたとえる評を読んだ。
確かにそうだ。
でもそれは、異界から来た女が閉じられた名家の人々を食い尽くすという物語の同質性ではない。

私の視点は外殻(外骨格)にある。

「エイリアン」は、暗闇に浮かび上がるモンスターの得体の知れなさこそが恐怖の核心だ。
あの姿かたちがあってはじめて、こんなセリフが意味を持つ。

アッシュ「君たちはあいつが何者かをまだ理解していない。
     完璧な生命体だ。攻撃性と結びついた完璧な構造だ」
ランバート「崇めてるの?」
アッシュ「純粋性をあがめている。
     良心や、後悔の念、モラルによって曇ることなどない純粋性を」

「映画スクエア」サイトの翻訳を引用

良心、後悔、モラル、そんな内面はひとかけらもない、という断言。
宇宙という極限の密室で出会った決して理解し合えない生物。
内面のない空っぽの恐ろしさを、リドリー・スコットは視覚的に見事に描き切った。

この頭、レトの頭に似ているような

あれから40年、84歳になってもこの監督は人の内面などにあまり興味はない。そう考えるとグッチというブランドのスキャンダルを描くのに、この人ほど最適な人はいない。

殺人事件を裁く法廷で、本名を呼ばれても無視するガガ。
「私をグッチ夫人と呼びなさい」
この期に及んでもブランドにこだわるその滑稽さ。
リドリー・スコットは、今回も空疎であることのおもしろさと美しさを視覚的に描き切った。

私は彼の映画を見るたびに深く感動する。
見た目がすべての徹底ぶりとこの清々しいまでの空虚さに。
これこそが映画。私にとっては。


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