推し事における「マウント」のこと

推し事でとても厄介になることが多い「マウント」。自分の優位性をアピールすることで、とかくトラブルになりがち。しかし人そのものの根源的な本能という面もある。日常生活において頻繁にマウントを仕掛ける人や、自己顕示欲が異常に強い人は、とかく嫌われることになりやすい。

親しいオタク同士で、マウントの取り合いというプロレスごっこがあったり、
「立場の違い」によってマウントと受け取られかねないケースもあったりもする。たとえば、古くから現場に通っている人の言動は新規の人からすると、なにげないものでもマウントと受け止められてしまうこともある。昔のイベントの話や、特典会の2s写真やムービーをSNSでみてもそう感じられてしまうこともある。
だからといって、新規の人に対して必要以上に気を使いすぎたら、それはそれで息苦しさを感じる。
マウントは、なかなか厄介でシビア。難しいものだと思います。

マウントは、自己顕示欲、承認欲求といったものものからでる行動。人の「欲求」から生まれるもの。そう考えるとすべてを否定してもいけないようにも感じます。それらも人間性を構築する数多くのもののひとつと言えるのですから。
大きすぎるのもダメだし、まったくないというのも変なこと。聖人ではないのですから。ほどほどな感じの「欲」ならばいいんじゃないかと思うのです。

ボーダーラインを頭の中でイメージするといいと思うんですよね。
どの程度のものだったら順当なのかというと「身の丈の高さ」と「推しへの愛情の深さ」。それよりも小さかったら気にならない。それよりも大きかったらNG。不快な印象にさせてしまう可能性が出てくる。

ただ、その高さや深さを正確に計測する「ものさし」はありません。当然のことながら、人との関係性によっても見え方や感じ方は変わってくる。共通する認識が生まれてくるものもあれば、逆に人によっての感じ方の相違もある。

「あー!またマウント合戦プロレスごっこやってるなー」とか、「この人は推しへの愛が深すぎるなー」とか、「この人はなんだかマウントとってるなぁー」とか思うわけですが。そのラインを目安にすることによって変わってくるかもと思うのです。でも、無意識でやってるような方もいるようで、そのようなことも含めて難しいところですが。

新規と古くから現場に通う人を隔てるライン。あるといったらあるし、でも、長い目で見たらない。私自身、あるアイドル(たこやきレインボーですが)に通うようになって、4年くらいですけど、自分自身は今なお新規という感覚でいるし、よく聞くようなモチベーションの低下って、まったくない。さくちゃんはすごいし、メンバー5人のことが大好きだし、ライブを何度もみても、とても楽しい。
私自身、もっと早く現場に行ってればよかったと思うこともあるし、行きたかったと思うライブやイベント、特典会に行きたかったと思うこともたくさんある。そういう意味では、誰もが同じだと思うのです。

もし、違いがあるとすれば、どのように好きなのかという部分。たとえは、じゃがりこのように好き、ここぞと言う時に食べると決めてる料理のように好き、うな重のように好き、お酒のように好き、生命の維持に不可欠な水のように好き、というようにいろんな、多種多様な好きがある。じゃがりこが好きな人と、生命の維持に必要なものと思っている人と、話が合うはずがないという点。
でも、すごく大切に思っている人同士では、最近の人、古くからの人、まったく関係なしで、親しくなることもある。
もちろん、昔のことは分からないかもしれません。「16歳の生誕ライブの推しの涙は尊かったよね」ということも、その場にいないと分からないかもしれない。でも、分からないことは想像力で、いくらでも埋められることなんじゃないかと思います。

最近、スタプラアイドルのSNSのスタンスが大きく変わったようで、ツイッターやTikTokの個人アカウントを取得したり、インスタグラムやTikTokでは、コメントへの「いいね」や返事をしてもいいという状況になってきているようです。推しに「いいね」や返事をもらえるととても嬉しいですし、オープンになってる場所のことを、ツイッターに流すようなことはぜんぜん良い事だと思います。

ただ、クローズドな場所のことをツイッターなどでさらすのは、NGなのではないか。
たとえば、推しに関するプライベートな情報、盗撮した写真はもちろんですが、Instagramのストーリーについた足跡をさらすということ。もしそれが、メンションを付けているのならなおさらのことで、わざわざ罠にかけたことを自慢しているような印象すらある。
Instagramのダイレクトメッセージのようなクローズドなものをさらすというのも同じようなこと(まず、返事がくるというのはないと思いますが)。
そういったツイートを見た推しは、盗撮された写真をさらされてるような気持ちになるのではないか。
そして、推しを大事にしている人も不快になるという連鎖がおこる。そして、その不快な印象はずっと付きまとうことにもなる。その瞬間、レスをもらったような気持ちになるのかもしれませんが、長い目で見たらその行動は自分の居心地を悪くすることになりかねない。
一線を越えては行けないルールというものはあると思うのです。

推しとの関わってきたこと、記憶や思い出は、そのひとつひとつが特別なもの、「お守り」のようなもの。
お守りは大事にするもので、自慢するようなものではないし、ましてやお守りの中身をさらすようなことは、まずやらない。
本当に大切なことは、自分の中にとどめておいた方が多いもの。そう私は思います。

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