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とある夕暮れの川辺

もう随分前のことだが、夕方に母親と近所の川辺を散歩していた。
いつの季節だったか思い出せないが、明るく温かい、過ごしやすい日で、心地よい夕べを楽しむため、たくさんの人が両岸に集まっていた。

大声ではしゃぎ回る子供のグループ。それをピクニックしながら見守る母親たち。もくもくとジョギングやウォーキングにいそしむ中高年。
川は南北まっすぐにのび、私たちは東側の一段高くなったところを歩きながら北へと遡上していった。

西側の木立の合間からまっすぐな西日が差し、芝生の岸や水面、辺り一面をオレンジ色に染めている。うれしそうに舌をだしながら、いそいそと飼い主をひっぱっていくゴールデンレトリバーがスローモーションで過ぎ去っていくように見えた。

おのおのが日没前の暖かさや夕暮れの色合いをたのしみつつ、会話らしい会話はなかったが、何の前触れもなく母が、
「モニちゃん、『みなさん、どうぞこの川辺に来てください』って書いて世界中の人に発信したら?」といった。

私は驚いた。私たちは全く同じことを考えていたのだ。

「平和」とか「幸せ」という言葉が具現化して、今目の前にひろがっているみたいだな、私はちょうどそんな風に思っていた。

その頃は文章でやっていきたいな、と思っていても、まだ具体的な方角へ足を向けていなかったし、家族にもそういう話はしていなかった。だけど、母親は何となくそういうところを感づいていて、無邪気にそんなことを言ったのだ。

行く先が定まらず、何となくくすぶっている時期ではあったけれど、ピクニックやヴァカンスに関する記事いくつか書いていて、自分が何に幸せを感じるかの自覚はあった。だから、どこにでも、誰にでも平等に降り注ぐ太陽や、空を見上げて「キレイだな」と思う瞬間があれば、戦争は本当になくなるんじゃ、と私は考えていたし、隣にいた母も似たようなことを考えていたのだ。西日に温められた空気を吸い込むとき、それは幸せを吸い込んでいるように心地がよかったのだから。

みんながこの川辺に集えば、争うなんて気は起きなくなるんじゃないか。私がそんな風に平和について考える時、それは平和な国で育った人間の、お気楽であまりにも感傷的な一面なのかもしれないと疑ってしまう。
だけど、戦争がなく、日々の暮らしもやっていけるような中にあっても、悲しみや辛いことは経験する。そういう時、自分を癒してくれる究極のものは自然なのだと、私は思う。自然といっても雄大なものやドラマティックである必要はない。
夕暮れの川辺とか、ちょっとした花とか、そういうものでも十分に力を持っている。何を持っているとかいないとか、そんなものは結局幸せを感じるのに必要ではない。

親子だから考えが通じ合って当然だ、とは私は思わない。我々には似ていると面も異質なところもある。だけど、何もかもを超越して我々に迫ってくるマジックのような何かが、あの日の夕方にはあった。
あの時、すくなからず自分が書くべきもの、その意義を意識したし、その本質は今もあまり変わっていないように思う。


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