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陰陽と中庸(魔術のはじまり)

魔術において、陰陽とは大変重要な見方ですが。隠と陽が分かれて見えていたところから、一つに見えるようになってからがスタートだったりします。

三次元での認識とは「分けること」から生まれ。細分化すればするほど様々なものが認識されていくのです。細分化を見る目というのは、それなりに訓練が必要で、そのものを良く知らないとさらに分けることは難しいのですね。

りんごを品種ごとに分けるためには。りんごに詳しくなければならない。というような感じですね。細分化というのはある意味、色とりどりな豊かさでもあるのです。

とはいえ、細分化されたうちの1つのモノ以外認めない!となったり。細分化されたうちの1つのモノを全てだ!と認識してしまったりすると。色とりどりという多様化は瞬時に失われ、囚われた窮屈さに変わり、狭くて貧しい状態になります。

りんごの中でも紅玉以外は認めない!紅玉が全てだ。となると、せっかくりんごに詳しくても、様々なりんごを選ぶ自由が失われるということですね。

様々なりんごの種類を知ること(分離)その種類を知ったうえで、それぞれのりんごの個性を認め含み「りんご」というグループとして認識すること(統合)ができたら、その後初めてりんごとの自分なりの付き合いが始まる。というような感じでしょうか。

陰陽というのは統合の最終段階です。

全てのモノや事柄には「陰」と「陽」がありそれらの最終的な統合の先は「不可知の世界」です。なので「陰陽」が一つに見えることとは自分の世界(自分の宇宙)が見えることだったりするのです。

自分の世界(自分の宇宙)を支えてくれる様々な要素を知り、それらと支え合い成り立つ「自分」を知ることで「自分」にとって丁度良い調和というものが初めて見えてくるのではないかと。

三次元の様々なモノの中にある「陰」と「陽」という統合の最終段階に注目することは、自分の世界をシンプルに見る見方です。

相反すると思われる「極」が一つのものだとわかるとき、中庸もみえてきます。中庸とは一本の線の端と端の「極」が重なり円になったときの円の中心点です。

「極」という端と端が、全く違うものだと感じているうちは、ついつい一本の線の真ん中を探りたくなりますが。その真ん中は中庸と呼ぶにはあまりにも不安定です。どこが「極」か?は、その人その人のモノの見え方で大きく変わってきてしまいますから。

「陰」と「陽」が重なり一つに見えたとき初めて、その中心点に中庸が見えてくる。(そして魔術を使うのははそこからだ)ということですね。


最近は、すっかりゆっくりペースですが。今年もどうぞよろしくお願いします!(╹◡╹)

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