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2048年のリマインダー #1

あらすじ

「じゃあ今、リマインダーセットしようや」

30歳を目前に控え、グラフィックデザイナーの恋人と同棲中の藤崎七恵は、退職のタイミングで東南アジアへ1ヶ月の一人旅へ出かけた。そこで出会った旅行者の吉川桂吾と親しくなり、旅を共にする中で、やがて二人は惹かれ合う。

灼熱の大地で出会い、次第に道ならぬ恋に落ちていった二人の行く末はいかに。

30歳を迎える女性の人生の岐路を等身大に描く、旅×恋愛小説。


私のiPhoneには2048年のリマインダーがセットしてある。
ある人との約束だ。

リマインダーとは予定の日時を打ち込めば、設定した時点で予定を通知してくれる機能で、iPhoneに初期装備されている。

約束をしたとはいえ、iPhoneが日本で普及したのはここ15年の話で、正直、20年後にiPhoneを使っているなんて保証もないし、その頃には予定管理機能だって進化し、リマインダー自体がアウトデートされているかもしれない。
近い未来、iPhoneに代わるスタンダードが生まれる可能性だってある。

ただ20年以上も先の予定を誰かと合わせるなんてことは、後にも先にも無いだろう。
それが彼との価値だと今は思っている。

ここからは彼と灼熱のラオスを過ごした日々の記録になる。思い返せば、暑すぎる気候に頭がやられていたのかもしれない。遠い昔のことのようにぼんやりとしていたり、時には昨日のことのように鮮明に感じられ胸が締め付けられる。
自分の身に起きた現実にも関わらず、余りにも日常とかけ離れた出来事に、あれは幻だったのかもしれないとさえ思わされる。

ただひとつ言えるのは、私にとってのラオスは彼だった。


序章

疲れていた。本当に仕事に疲れていた。
体力的にではなく、精神的にだ。

藤崎七恵ふじさきななえはその頃、中小企業でOLとして働いていた。
仕事を続けていた理由は、概ね自分の辿る未来に安定が欲しかったからだ。プロポーズされたわけではないが、同棲する乃木翔平のぎしょうへいとは5年の仲になり、近い将来結婚、出産のイベントが迫っていることはなんとなく感じていた。

翔平はグラフィックデザイナーとして駆け出しのフリーランス、起業から2期目であり、生活にこそ困っていないがまだまだ不安定といっていい。
七恵が安定の片棒を担いでいれば、もし彼の仕事がダメになってもなんとか持ち堪えられる、それだけが仕事を続ける理由になっていた。

2つ上の翔平との出会いは友人の紹介で、感情に波のない穏やかな人柄と、仕事熱心な点に惹かれた。とはいえそれは共に過ごしていくうちに気づいた魅力で、初めて出会った飲みの場では端正な顔立ちと、女性の扱いはこうあるべきというポイントが押えられ、行動がいちいちスマートだった部分に「この人いいかも」と安易に惚れた。髭が整えられ、ワイルドな印象ながらも、決して不潔さはなく、身に着けている洋服や小物にセンスが伺えたところも七恵の心を掴んだ。

5年の月日のなかでそりゃ衝突もあればもう別れたいと思ったこともあったが、その都度話し合い、その度にお互いを知り、歩み寄ることを覚えていった。今ではお互いが一番の理解者であり、起業したてという不安定な船の上で生活を共にしていく共同体になった。

その頃の七恵は、大学を卒業してから4年間勤めた映像制作会社を辞め、食品会社の人事部に転職してから3年が経過していた。

前職ではCMやドラマ撮影のスケジュール管理や、撮影現場でのアシスタントとして昼夜問わず駆け回るように働いていた。
常に複数の案件が同時進行し、状況は目まぐるしく変化していく。案件の数だけクライアントがいて、代理店担当者がいて、タレント周りのスタッフや撮影に関わるスタッフがいる。それらすべてに逐一連絡を取り、管理していく必要があった。七恵にとって、持ち前のバイタリティと、負けず嫌いからくる責任感を存分に生かせる職業だった。人当たりの良さには定評があり、周囲や上司からは安心して現場を任せられるという評価もあった。

22時に打ち合わせが終わり、夜中の3時に撮影現場に集合する。撮影が終わる頃には深夜1時。一体どこまでが1日の仕事で、どこで終業といえるのかわからない。2日ぶりにシャワーを浴びることも珍しくなかった。けれど自分が関わった案件がTVやネットで配信される喜びはひとしおで、その度に誇らしい気持ちで田舎の母に連絡をした。

やりがいは十分すぎる程だったが、その分あまりにも自由な時間が無かった。スケジュールは変更を要するケースがほとんどで、休みの予定も満足に立てられない。体力的にもワークライフバランス的にも限界があると感じていた。それらの理由から上昇志向を持ち合わせていなかった七恵は、リーダーへの昇進のタイミングで転職に気持ちが向いていった。OLへの憧れから、カレンダー通りの休日があり、福利厚生の充実した中規模の食品会社の人事部門へ転職した。


初めはオフィスで働くということが新鮮で、新しい環境で仕事を覚えることが楽しかった。オフィスカジュアルを身にまとい、12時にはランチに出かけ、定時があり、カレンダー通りの休みがある。曜日によってやるべき仕事は大体決まっており、急を要する案件は滅多にない。年度末にはいくらか忙しくなったが、前職と比べるとかなり余裕がある働き方で、これぞ七恵が求めていたものだった。

しかし、自分のペースで仕事ができるようになると、次第にこのルーティンワークを苦痛に感じるようになった。

周りの上司や同僚は皆一回り以上離れていて、子どもとの方が年齢が近い七恵を可愛がってくれた。しかし常に交わされる話の内容は義母の病院に付き添ったことや、老眼や腰痛の改善のためにしていることなど、七恵には全く興味が沸かないし、ピンと来ない。割と誰とでもそつなく世間話ができて、むしろ得意な方だと思っていたが、こうも毎日続くと、守備範囲外のどうでもいい会話を愛想よく聞き入ることにも忍耐が要る。気を抜くと「ごめんねこんな話ばっかり。いいね、藤崎さん若いから。」と反応に困るお決まりのセリフがまわってくる。

つまらない。つまらないけどいずれ妊娠をしたら、産休に入ったら、きっとこの仕事は喉から手が出るほど羨ましい仕事に違いない。大して結婚や出産に焦りもしていなかったくせに無駄にしがみついた。

高校時代からの友人の咲希と食事に行った際、あることを聞かされた。
「杏奈さ流産しちゃったらしいよ」
「えぇ。嘘。」
「まじまじ。かわいそうだよね。夜勤とか普通にやってたらしいし。看護師って体力勝負だもんね。」
「つらいね」
「ね。私なんか派遣社員のまま妊娠しちゃったから、育休なんてフルで取れそうにないわ。切られるもん。どこでもいいから正社員なっとけば良かった。」
「たしかに、大変だよね、現実問題妊娠するって。」
「七恵はいいよね。いつ結婚しても妊娠しても保障あるもん。」
「そうだね...まだ予定ないけどね」

他者から見ると、いわゆるホワイトな職場で正社員という立場の七恵は羨ましがられることもあった。妊娠してからの現実の厳しさについては、先陣を切っていった友人たちから嫌という程聞かされていた。
(私は恵まれているんだ。この環境にありがたさを感じた方がいいんだ。)

しかし、毎日の仕事といえば、10分で終わる書類を2時間かけて仕上げる。4時半をまわれば終業のカウントダウンを始める。なかなか進まない時間にしびれをきらし、トイレに立つ。席に戻っても5分しか経っていない。時計ばかり見ているのが辛く、手元に目線を落とし爪の甘皮を剥いたりする。

決して苦労が欲しかったわけではないが、何かに必死になることもない毎日に焦りを感じ始めた。
時間を手に入れたくて選んだ仕事だったのに、20代後半の貴重な時間を、ただ溶かしている。そんな感覚だった。

そんな日々が続いていた頃、私生活でも翔平との衝突が多くなった。七恵はあからさまに不機嫌を押し付け、少しのことで憤慨する様になった。自分でも自分をコントロールできない。一番身近な存在に当たり散らして、横柄な態度をとり自分のなかで蓄積していくイライラを発散していた。休みの日には吐くまで過食し、一日中ソファーの上で過ごした。腐り始めていた自分に、気づいていなかった。

秋から冬に季節がうつる頃。ある日、彼から「俺、七恵に代わって、診断してみたんだけど、鬱になりつつあると思う」突然そう言われた。翔平は明らかに変わった七恵の様子を、ネットの鬱診断に当てはめて確認していた。
(私って、そんな風に見えてたんだ...)
「仕事続けなくてもいいんだから。俺がなんとかするから、産休とかそういうの気にしなくてもいいくらい頑張るからさ。好きなことを仕事にした方がいいよ。」
翔平の言葉が、すとんと胸に落ちる。そっか。私、仕事辞めたいんだ。見透かされていた恥ずかしさで顔が紅くなった。それと同時に安堵が押し寄せ、申し訳のない気持ちから涙が溢れた。私が憤慨するたびに受け止める彼の優しさも、代わりに鬱診断を受けるほど心配してくれていたことも、私のための言葉掛けも全てありがたかった。

こうして私は春に仕事を辞めることにした


♯2へ続く

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