第12段 おなじ心ならん人としめやかに物語して。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

文学は毒だ。とは、よくいったものだが、随筆においては殊更にそれを痛感するものである。随筆というのは暴力的な言い方をすれば汚水に近いものだと思う。人間の中にある由無し事を延々と書き綴る。それを他人が読む。他人の中にその由無し事が憑依する。そうしてその他人がまた別の他人へとその由無し事を書き綴るなり語るなりして紡いだりそれとなく言い含めたりもする。そうやってまるで巷で大流行りの伝染病のように幾ばくかの人間へと拡がってゆく。毒も病も拡がる時は一瞬だ。これぞいわゆる待った無しのお家芸、とでも言おうか。そんなことをつとつとと思いながら今日もこれ幸いにと電子計算機の前に鎮座している私がいる。皆々様、本日もお目通しいただき誠にありがとうございます。唐突だが、皆さんは自分にそっくりな人物と出会ったことがあるだろうか。趣味や選ぶ色、味覚、何から何までそっくりな人間。まるで自分のクローンでもあるかのような人物、私はそんな人に出会ったことがある。あれはちょうど今からもう10年くらい前の話だ。彼は私よりも二つ年下で、美容師という仕事をしていた。その時はちょうどまだアシスタントをしていたので、毎日とにかく激務、休みも週に一度という生活を送っていた。そんな彼とは友人を通して知り合い、なぜだか急激に仲良くなった。とにかく彼も私も激務だったので時間は限られていたが、それでも電話や直接会ったりなどしてたくさんの話をした。育った環境、将来のこと、一日の出来事など、よもやま話から深刻な話まで、とにかくありとあらゆる話をした。毎日が千夜一夜だった。夜中まで電話で話し込むときもあった。そうしてそのまま夜明かしして仕事に行くこともざらだった。新宿のカラオケルームでオールしていた時代もある。彼の家は中央線沿いでかなり遠かったので、始発に乗るために早朝の歌舞伎町を全力疾走したりもした。早朝の歌舞伎町というのはかなり趣深い。ああいったいわゆる歓楽街の朝の表情というのは、意外かもしれないが独特の『神聖さ』があるように思われる。世間一般では人倫に背くと言われていることがら、そのはざまに生きる人々、それらを全て包み隠しまるでおくびにも出さぬように呑み込んでしまう何かがある。その底知れぬ何かが、私は嫌いではなかった。きっとおそらくそこにいた私も彼も、いわゆるはざまの人間だったのだ。なんとなく社会という輪廻からはじき出されているような、そんな感覚が漠然とあった。異邦人、と呼ばれる人たちは、こんな気持ちを味わってきたのだろうか。そんなことをよく思ったりもしていた。だからこそこの街のふくよかな神聖さに、何かを求めていたのかもしれない。あの時は二人でどこまでも、知らない渦に呑み込まれていくことにちょっとしたスリルを得て、感じていたのだと思う。そしてそれに付随してくるはずの喜びも、少なからず味わっていたのだと思う。そんないわゆる、如何しようも無い美しい日々を過ごしていた私たちは、それでも或る日を境に突然、ぱったりと会わなくなった。特に喧嘩したわけでもない。何か、関係を崩すようなことをしたわけでもない。おそらくだが単純に、『もう十分だ』とお互いに思うようになったのだと推測している。少なくとも私はそうだった。もっと事を詳細に話すと私たちにはとある問題があったのだ。それは、『お互いに同じくらい似すぎていたこと』。前半でも述べたが、とにかく趣味趣向、服装や食べ物、何から何まで全て同じだった。クローンや双子のように、何から何まで同じすぎて、最終的にはもはや何も聞かずとも意思の疎通が測れるようになっていたのだ。始めはテレパシーでも使えるかのように楽しかったのだが、それでもやはりラクとタノシイは紙一重である。差がない、というのは私たち人間や進化を定義とする生物にとってはなかなかに受け入れがたいものでもある。物の見事にだんだんとつまらなくなっていき、とにかく新しい事を知るという感覚からはどんどんと遠ざかっていってしまった。その様は言うなれば、高速道路や延々と続く工場のライン作業にも似ているかもしれない。そしてとあるパスタ屋にご飯を食べにいったきり、私たちの物語は幕を閉じた。あの日はお互いにお気に入りの海老とアボカドのジェノベーゼを食べ、多くは語らず、ただ何とは無しにそのまま新宿で別れた。特段何かを語りはしなかったが、彼の眸に映る私自身はすでに悟りを開いたあとだった。『もう俺たちは、充分だよね。』彼の声が、頭のなかでこだまする。『うん、そうだね、楽しかったね。次会うのは来世かな。』私もそれに呼応する。直感的ではあったがこう思った。もう次に会うのは今生ではない。今世での、私たちがお互いにもたらす役割みたいなものは既に終わったのだ。それでもよかった。それでも私たちの美しい時間には何も変わりはない。ただそれだけでもう、じゅうぶんに、しあわせだった。気持ちというのはとても不可思議な代物だ。通じていると思えば通じていないこともあり、その逆も然りだ。そして通じすぎたと思えばそれはそれで、不可逆的な、いわゆる宇宙のお告げのようなものを引き連れてきたりもする。もしかしたらそれをかき集めて私たちは、『運命』と名付けるのかもしれない。運命の波に乗った時、人生は不思議な輝きを放ち始める。あの時の私たちは今も変わらず、そのとしつきは光年となって、私の宙に放たれている。ああ、今日も満点の星空だ。生きることはかくも、美しい。








コギト・エルゴ・スム

踊る哲学者モニカみなみ

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