「生」からの脱出

早いところ死にたいというのはあまりにも軽々しい。
死にたいというよりは「生きるのを諦めたい」が正しい。
だからこその生からの脱出なんだけど。解脱ともまた異なる。快楽や極楽を求めるために生きているんじゃないし。まだ見ぬ死に対して少しずつ期待をしながら、生きる必要のない寿命を消費して、無駄に健康すぎる自分の体に辟易としているだけ。
もちろん、死にたくないわけじゃない。「死」というコンテンツは私にはあまりに魅力的すぎる。この混沌とした世界の中で、自分という小さな存在が投げかけられる死生観なんか、塵にもならないんだけど。

どこにでもある死生観。希死念慮。「誰にでもあるものです」という冷たい言葉。いや、でも「つらかったね」なんて言われたくもなくて。だって、希死念慮は私の生活の一部だから。いつからもうこんなに希死念慮が私の中で大きくなって飲み込んでいるのかはわからない。けど、こうやって希死念慮さんと一緒に過ごしている私は、希死念慮を愛してさえいる。一方で憎んでもいる。こいつさえいなければ。誰にでも持ちうる嫉妬と憎しみの感情だけは今もちゃんと生きている。もはや私の希死念慮は私の生を保証してしまうツールでしかない。死にたいときに出てくる影の声というよりはどちらかというと常に死にたいという状態を思い出させる「事象」にすぎない。

人を愛すること、好きでいること、おいしいとおもうこと。楽しいと思うこと、悲しいと思うこと。捨ててきた感情は数多ある。これを入力していて思うのは、今こうして羅列した感情の中で「人を愛すること」が一番最初に来たのがいよいよだなって思う。人の愛を見るのは羞恥だし、自分が人を愛するほどの体力はもうない。書いてて何歳の文章かなって思うんだけど、まだ25歳なんだよね。悲しい話。悲しい話なのかも微妙だな。年齢というのは、ヒトの感情を動かすためのツールに過ぎない。特に、日本人においてはマウンティングの材料でしかない。世間話をするときに、年齢の話は結構続くから、頻繁に使用しているだけ。

人を愛することっていうのは、非常に体力のある話だったんだな って、捨てた今ははっきりと認識できる。博愛主義者というのは、自分の感情の体力のバロメーターが振り切っているのだろうな、と某美貌のよろしい姉妹を見て思う。彼女たちは魅力的だが、なろうとは思わない。求めている世界の理が違いすぎる。生き方次第で人は変われるというが、それは気の持ちようだろう。気の持ちようというのは主義の入れ替えではなくて、単純に感情コントロールの問題。感情の欠落している人間にとって生き方というのはただの指標に過ぎない。私は、変わりたいとも思わない。今まで通りの、死にたがりの死にぞこない。
漫画を読んで胃の閉まる感覚はある。いわば「きゅん」の状態。でも、あれって情動性自律反応って言って本能行動なのですよね。本能生きてなかったらそれはおそらく生理的な死なのでまだ生きているんだなってちょっと思うことがある。そういうとき、常に出てくるのは「残念だなあ」であって、生への執着にはつながらない。思考は常に私の感情と結びついておきながら、感情は本能と一致しない。一部の感情が死んでいるのに、本能は確かに機能しているから。どこかに忘れてきたのかな。

先日、身内が死んだ。この暖冬の中、彼とのお別れの日は雪が降り続いた。その日、私は実習終わりにすぐ新幹線に飛び乗って東北に行ったものだから、ウールのコートにスーツ+中にカーディガンといういで立ちで、どうも寒くてどうにかなりそうだったけど、いざ降り立つと東北の冬はさほど寒いとは思わない。こちらが変に寒いのは風がよく関東平野を冷やすから。彼は、最期癌による痛みで痛い痛いと言いながらこの世を後にしたそうだ。死というものは難消化性だから、やっぱりそういう感情や世間体を備えた人間には収めるのに時間がかかるみたいで、従兄弟はずっと泣いていた。そりゃ実の父だから泣くだろうけど。そこで、私は想像した。私はどのタイミングで消化しきるのか。難消化性なのはやっぱり親だけなのか。常に夢見心地の頭の中だから、今生の死というよりはまあ、自分も死んだらどっかで会うんじゃねえのかなくらいの気持ちにしかならない。消化する前からすでにもうなかった。私に、死を悼む気持ちは存在しなかった。あってもせいぜい湯葉くらいだ。きっと、誰がそうなっても、私の中の湯葉が厚い層になることはない。ああ、そうなんだ。ふーん、と。ゴシップを聞き流すかのように終わらせる。薄情だと思われたとしても、私はきっと死がうらやましい。いつだろう。あの人の後を追えるのはいったいいつだろう。死とはどんな気持ちで、死とはどういうもので。どう意識を手放すのか。寝たように死ぬのか。痛い気持ちがあるのに、死ぬ瞬間は辛さでさえ失せるのか。死者と1度だけ話ができるなら、聞きたいことばっかりだ。死んだら幸せ?と。

嵐の二宮さんが、年上に対してどうしてそうも横柄に対応できるのかという話に対して「年上は自分よりも先に死ぬから」と言っていた番組があったのをどこかで拝見した。確かにそうだ。大体の人間は自分よりも、年上なら先に死ぬか、年下なら自分より後に死ぬ人間という認識が存在して、だからこそ横柄にもなれる。ただ、私はどうだ?と考えた時、私は誰にでも横柄でいいんじゃないのか。とも思う。だって、私より先に死ぬ人なんかいないし、あとに死ぬ人は私のことなど思い出さない。失礼だとか、失敬だとか言われても、申し訳ないけど私最近どうやら善悪も判らなくなってきたみたいなので世間体的にNGなら「それ世間体的にはNGです」って言ってくれると、ああ、すいません。ってなるとは思います。はい。
生きていくうえで、誰にも思い出されないのはさみしいと聞いたことがあって、それは大体において承認欲求を満たしたい思いに他ならないだろう、と想像したことはある。思い出してほしくもない。

時間をかけて書くせいで推敲したらすごい文だ、とも思う。けど、自分の感情(目下のところ、感情としておく)について書くことなんて、こんなものだ。いつもいつもまとまりなんかない。昔から、何を言いたいかわからないといわれるのにはもう慣れた。でも今回は題名を付けた通り、生をやめることについて書きたかった。死生観を書いて終わったような気もするんだが。