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日本の公鋳貨幣10「寛平大宝」

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今回紹介するのは皇朝十二銭の十番目、「寛平大宝」です。が、実はこの貨幣について書く事はほぼありません。というのも、国書に記録がほとんどないからです。本貨についての記録は『日本紀略』の寛平2(890)年4月27日の記録にある「改銭貨曰寛平大宝」8文字が全てなのです。

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『日本紀略』という書物についてはその成立過程や編纂者がよくわかっておらず謎の書物なのですが、平安時代に成立していることは確かなことから、当時の権力に近い人物が六国史に続く形で、宇多天皇から後一条天皇まで、すなわち887年から1036年までの歴史を書物に残そうとしたものなのでしょう。大事な事は、平安時代の国史に準ずる書物として、それなりの権力者が編纂した本書において、貨幣発行の記録は8文字程度で済ませて問題がないくらの出来事であったということです。

この理由を把握するために、平安時代の社会状況をより詳細に解説しておきましょう。平安時代初期の貨幣流通状況ですが、これは意外と流通をしています。それは桓武天皇というカリスマの権力があったからです。桓武の発行した貨幣「隆平永宝」は、桓武の意図した通り、中央貴族や寺社など上層階級の人びとと、市井に若干存在する富裕層を中心に行き渡りました。

そしてこれらの人びとは、貯め込んだ貨幣を貧民に高利貸付を行う際の原資として用いたり、遠隔地間の取引媒介として用いていました。これにより、貨幣は下層階級の人びとにも行き渡りました。平安京の中では、官営の市が早い段階で衰退した穴を埋めるように、民間の市が立つようになり、小額取引は銭が使われるようになります。

ですが桓武の死後、彼のカリスマ性で持っていた朝廷が発行する貨幣の価値は一気に下落します。天皇家や貴族間で相次いで起こる争いが絶えなかったことと、朝廷がそうした争いにより生じた赤字を補填する手段として、新たに発行する銭はそれまでの10倍の価値にするという法令を濫発したことがその理由です。おまけに産銅の減少もあり、発行される新銭はどんどん品質が悪化していました。銭は民間での購買力を失っていきます。

そのため、余った銭貨は社会の上層階級の人びとの手元に集積され、貧しい人びとから富を収奪する手段として用いられました。具体的に言うと、購買力を失った銭を支払い手段として無理矢理渡す事で、布や米といった当時もっとも価値のあった商品を庶民から取り上げるといった使い方です。

平安京に暮らす貴族は、自らの屋敷で働く下男・下女に給料として銭を支払っています。貴族間では購買力のない意味のない貨幣ではありましたが、身分の卑しい者に支払うには十分な価値がありました。こうして彼らは、自分の懐をほとんど傷めず労働力の確保に成功しました。都で小額の貨幣使用が地方よりも長く続いた理由は、搾取された下民が多くいたからです。

平安京の貴族より多く銭貨を多く貯め込んでいたのが、地方の豪族です。彼らは地方でつくったものを中央に売る事で、厳しい国司の徴税の中でも蓄財に成功していました。長い距離を運送する上では、物々交換よりは銭貨を用いたほうが輸送に都合がよく、銭貨は中央から地方へと渡っていきました。。

ところが、前述の理由で貨幣価値の下落が続きインフレーションが進行したため、地方で貯め込まれた貨幣は価値を失い交易で使用できなくなってしまいました。すると、豪族は国司に税を納めるだけの存在になってしまい、地方支配の旨みがなくなってしまいました。そこで、彼らは自分たちの資産や権威を守るために『不輸・不入の権』を持つ国司よりも位の高い中央の上級貴族へ、土地ごと寄進して保護を求めるようになりました。寄進された領地は、上級貴族の荘園となり、朝廷へ税を納める義務がなくなるからです。寄進後の豪族は、上級貴族の荘官(現地の支配人)としてその土地を治めることで従来と変わらぬ収入を保護されました。土地の寄進が続いたことにより、天皇を上回る経済力と権力を手に入れたのが藤原北家です。

藤原北家は政争の最中こそ、「饒益神宝」や「貞観永宝」といった貨幣を発行し、その差益を用いて他市排斥を行っていた痕跡がうかがえますが、いわゆる摂関政治体勢を完成させてからは、とたんに貨幣鋳造について興味を失っています。藤原北家は政争の中で、日本の荘園の7割を手にするまでになっていますので、わざわざ苦労して貨幣を発行しなくても、座っているだけで全国から商品が納められてくるのです。当然と言えば当然でしょう。

貨幣の価値は底を打っており、代わりに米や布などの物品が貨幣として用いられる時代へと日本は後退しました。こうして「寛平大宝」が発行されてからわずか10年後の延喜元(901)年には、細々と貨幣を使用し続けていた京の市からも貨幣の使用記録が見られなくなります。ついに京の中でも、貨幣では何も買えないくらいに価格が下落したということでしょう。

本貨幣の発行目的について日本銀行金融研究所は、従前の例と同じく財政目的から発行されたもので、従前の例に従って、寛平大宝1:旧銭10の割合で使用されただろうと推測しています。が、直径、重さは貞観永宝の60〜65%にまで縮小されていますので当初からこの価格設定は通用していなかったと考えた方が自然でしょう。文字もかなり稚拙な作りとなっています。特に「寛」の字は致命的で、文字の省略が激しすぎて画数が足りていません。これは、直径を縮小したことによって、当時の技術では画数の多い「寛」の字を鋳出すことができないからと考えられています。


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