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日本の公鋳貨幣31「銭の広域売買」

民間による撰銭令への対抗

あけましておめでとうございます(⁉︎)。2022年ものんびりとこちらの記事は更新していければなと考えております。

という序文を書いてからもう2ヶ月が経とうとしております。

いや、ちょっと5月に本業の方で書籍を出さなければならなくなったり、8月に新規媒体を立ち上げたりと、仕事に追われておりまして……。しかも、長らく放置していたのに、読者の方が増えていたようで申し訳ないです。

今週から、こちらの更新も復帰します。

さてさて、領主の治める土地ごと、あるいは官位や敵対関係によって撰銭の習慣と撰銭令が変化していったことを昨年末は数回にわたって延々と書いてきました。戦国時代に突入し、中央政府が機能しなくなったこと。それにより、日本全体で地方が乱立した状態となり、撰銭令も領国の数だけ発布されていったことなどです。

これまで解説してきたように、撰銭という文化は民間発のものであります。人々が生活を便利にするため銭を使う上でのルールを作り、商人がこうした慣習の抜け道を見つけあくどい金儲けを行い、領主が一般庶民を守るために撰銭を公認する形の制御(撰銭令)を発布する。これが、撰銭及び撰銭令発布までの流れです。

ですが、賢しい民間人、すなわち商人は当然こうした撰銭令への対抗策も練り始めます。

それが、銭の広域売買です。

情報を独占することが商売の本流

撰銭の基準となる銭が地域ごとの基準で異なっていたことはこれまで散々っぱら解説してまいりました。世の中は銭不足の時代です。巡り巡ってようやくあなたの手元にやってきた銭なのに、あなたの住む地域では1枚1文で使うことが認められていなかった場合、あなたならどうしますか?

とある架空のトレーディングカードゲームで考えてみましょう。

あなたの住む町ではカード「α」は1枚10円でしか買い取ってくれません。ですが、「α」は特定のカード「β」と組み合わせると、非常に強力なコンボが発動できることが隣町では知られていました。

なので、隣町のカードショップではしょぼいカードであるはずの「α」が1枚500円で売買されています。あなたは「α」のカードは持っているものの「β」は持っていません。

さて、どうしますか?

おそらくほとんどの人が、手持ちの「α」を持って隣町に行き500円で売ってしまうでしょう。

銭のにも同じことが起きました。Aという町で撰銭され、基準銭から弾かれてしまった価値のない銭があるならば、その銭が基準銭として用いられる地域に持っていって高値で売ってしまえばいいと商人たちは考えました。これが「銭の広域売買」と呼ばれる現象です。

商売の要となっているのが、情報の独占です。

考えてみてください。あなたは隣町で「α」が1枚500円で売買されていることを知っているからこそ、わざわざ売りに出かけたのです。「α」と「β」のカードを組み合わせたら強い、という情報がインターネットで出回ったら、Aの町も売値を引き上げたかもしれません。あるいは、同じように「α」を売って儲けようとする人がカードショップに殺到し、「α」の在庫が増大。需給バランスが崩れ全国的に「α」の値下がりを招いたかもしれません。

インターネットのある現代なら、地方と都会、あるいは、遠方同士の情報格差というものはあまり起きません。ですが、16世紀の日本ではどうだったかというと、最新情報は、丁寧に領国を経営する大名や、あるいは全国をまたにかけて活躍するような広域商人の独占状態にありました。

こうした商人は、もちろん自分たちが損をしないよう、全国各地の基準銭の情報も手にしています。損をしないようにというだけではありません。その情報を使ってすこしでも儲けるように銭の広域売買を事業として行い始めたのです。

商人によって生まれた「鍛」というお金

ここからは、比較的最新の研究に基づいたお金の話をしていきます。

元亀2(1571)年、京都の吉田神社の神官である吉田兼右が、安芸国(現在の広島県)厳島神社の遷宮式に赴きました。この時吉田は、安芸国にある様々な神社が祝金として「南京」という銭を贈っていて驚いたと記録しています。

「南京」は、一般的には中国南京付近でつくられた私鋳銭、あるいはそれを元にして日本で作られた模造銭のことを指すとされますが、断言はできません。ただ、態々日記に記すほどの驚きだったということは、この銭は京では流通していなかったか、撰銭の対象として嫌われていたものであったと推測できます。

この日記を書いた吉田兼右という人は、決して歴史の教科書に載るような有名人ではありませんが、ある意味、織田信長などよりもよっぽど私たちの生活に直結した事業を成した御仁です。

彼は、室町後期の神道家で、吉田神道の大成者・卜部(吉田)兼倶の孫でした。卜部(吉田)兼倶がほぼ一人で作り上げた吉田神道とは、本邦で発達していった神仏習合の本地垂迹説を否定した宗派。仏教の伝来以降、日本各地で「神道の神は仏が姿を変えたもの」と考えられていました。ところが、兼倶は神本仏迹説、すなわち神こそが全ての本であり、仏も、木々も何もかもが神の力の顕現と考えました。

我々がトイレの神様などと呑気に考えるようになり、神社がクリスマスにデコレーションしてもOKというようなゆるーい場所になった背景には、近世まで日本中で信仰されていた吉田神道があります。吉田神道では、神を根と考えるなら結実した花や果実が仏教やその他宗教であると考え、決して他の宗教を否定しませんでした。なので、本地垂迹を強く信仰していた寺ともなあなあで仲良くやっていくことができました。

そして、日記を記した吉田兼右は、祖父・兼倶が作り上げた吉田神道を、日本全国に広げる活動をおこなった人でした。全国の神社を巡り、吉田神道の思想を神職だけでなく庶民にまで広めていった活動は、朝廷でも高く評価されています。つまり、京都の公卿の中でもトップに近い人物であったということです。

ところが、政権の中枢に近い権力者側の兼右は、安芸の南京のことについて知識をもっていなかったようなのです。実は京には、銭の広域売買を行うための取引市場がありました。それなのに、京に在住する公卿が銭の地域差のことをまるで把握していないのです。

推測される事態は2つ。

①銭の売買市場の存在事態を吉田兼右は知らなかった。

②あるいは、銭の地域差の存在は知識として知っていたものの、吉田兼右が実態を見たことがなかった

ことでしょう。

安芸の国の例を上げるまでもなく、津々浦々で撰銭令が出されていた16世紀には、京で「銭」と呼ばれないレベルの貨幣ばかりが通用する地域が多数存在しました。そうした地域で流通している銭未満と見下された貨幣を表す言葉として、このころから「鍛(ちゃん)」という単語が記録されるようになります。

「鍛」が具体的にどの貨幣を指すかはわかっておりませんが、

甲斐国(山梨県)で「南京」という低位銭が流通していた

『妙法寺記』

能登国で年貢として納入された銭は、京都では悪銭とされ受け取ってもらえなかった

『戦国期の貨幣と経済』
川戸貴史 2008

という記録などと複合的に合わせみて、京で悪銭として弾かれた銭だが、地方では貨幣として通用したものを「鍛」と呼んでいたのではと、考えられるようになっています。 

では、「鍛」はどこからきたのでしょう。当然、銭を弾いた京であろうとの推理が成り立ちます。

京の銭市場では、各種悪銭を次々と買い集めています。そして、これらの悪銭を銭銘ごとに分類し、「鍛」として通用する地域へと輸送します。「鍛」が通用する地域では、自分たちの地域で弾かれた悪銭や、あるいは特産品でもって「鍛」を購入します。こうして得たモノをさらに売ることによって銭の広域売買業者は、シンプル極まりないマネーロンダリングを行いました。

銭を製造し地域で販売する業者

もう一点、商人が撰銭令への対抗策として用いていた手段を紹介します。ここ5〜6年の考古学的な研究結果から判明した説です。あとは、これ関する経済史的な史料が発見できれば、通説として今後定着していくと思われます。

それが、大規模な私鋳銭鋳造業者の運営です。

日本は平安時代以降、自国で貨幣を発行していなかったとされています。が、貨幣の鋳造技術は高いものを持っていました。鋳物師職人の鋳造技術が優れていたのだろうとされていましたが、技術だけではどうにも説明できないことがあります。

それが、国産模造銭の数量です。

例えば、徳川幕府は江戸時代に入ってから寛永通宝を大量生産します。すると、幕府が銭の発行を定めてから数年で、日本は数億枚もの銭貨を発行するようになり、あまつさえ東アジア一帯の国外銭需要まで満たす規模になりました。

私鋳銭というと、どうしても小規模な人数でこそこそと作っている姿をイメージしがちです。そんな数十人数百人、腕利きの職人が集まったからといって、戦国時代が終わってから約30年。もっといえば寛永通宝の発行が始まってから10年程度で、600年近く国家として鋳造してこなかった銭を発行できるものでしょうか?

「かじき銭」と呼ばれる私鋳銭群があります。

私鋳銭のかじき銭。背面に「加」「治」「木」の一字が入る。本画像は極めて珍しいひらがなの「か」が入ったもので、市場価格は200万円を軽く超える。

これらは、現在の鹿児島県姶良市加治木のあたりで、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて島津家の命令によりつくられたものと古くから伝わっています。が、島津家か命じたという証拠はありません。ただ、かじき銭と伝わる模造銭の数が多いため、バックには大名クラスの有力者がついていたことは確実と推測されています。

貨幣を大量に鋳造するには、やはり金がかかります。金を用意できるのは大名より、むしろ、商人ではないでしょうか?

16世紀の中頃から、会合衆や納屋衆と呼ばれる超有力商人らによる自治都市として発展していたことが知られている大阪府堺市。この町の地下にはいまだに16世紀以前の町の遺跡が眠っています。この古い堺の大規模発掘を行ったところ、面白いものが発掘されました。

私鋳銭の鋳型です。

発見された鋳型も一種類だけではありません。いわゆる打平と呼ばれる無文 銭のほか、唐の開元通宝や、北宋の皇宋元宝、元祐通宝、政和通宝などです。個人でひっそりと、細々行う私鋳であれば、これほどたくさんの鋳型が必要であるはずがありません。間違いなく、事業として銭の私鋳を行っていた跡とされました。出土したのは16世紀中期の地層。つまり、堺が商人らによる自治都市として繁栄していたころの地層です。この鋳造事業は、商人らがバックについて行われていたものと考えられています。

この発見を皮切りに全国各地で、銭の大規模模造工場跡が発見されるようになりました。しかも、堺よりも遥かに古い時代の大規模鋳造工場がです。

平安京八条院町では 13世紀後半~14世紀の地層で、多数の銭鋳型が見つかりました。鎌倉でも13世紀以降の地層から銭の鋳型が発見されました。茨城県の村松白根遺跡からは、製塩工場の隣で、永楽通宝の鋳型や鋳造途中の永楽通宝の枝銭まで見つかっています。

『古事類苑 泉貨部・称量部』内の「鳴海平蔵由緒書」からは、以下のような記述も見つかりました。

応永年中(1394~1428年)、足利公方勝定院義持公の御代、朝鮮国より永楽銭三千貫文(300万枚)を貢ぎ奉り、是れ珍宝なりとて、日本にて賞玩す。金銀との取替も高値にて、壱貫文は〈金壱両四分八分(ママ)〉と定むる。然れども、員数わずか三千貫文にて通用に足らざる故、我が朝にて、その後、永楽銭の鋳たしを仰せ付けられ候、此の節、京都に於いて、銭奉行職を仕り候〜

『日本中世の貨幣をめぐる諸問題』より
函館大学 教授 田 中 浩 司
函館工業高等専門学校 教授 中 村 和 之

これまで誰も注目しなかったような鳴海平蔵さんの家の由緒書きに、これまで日本の歴史では語られてこなかった『四代将軍・足利義持に命じられて、永楽通宝を鋳る銭奉行職となったこと』が記されているのです。

600年間、国家として銭を鋳造してこなかったという通説に反する史料です。

もし、この史料が真であるならば、国内流通用でなかったとはいえ、日本は貨幣の鋳造を国家として行ったことになります。

この鳴海平蔵なるい人物が、なぜ自分の祖先の由緒がきを残したかというと、この人は、江戸時代に寛永通宝の鋳造を命じられ行った人だからです。
寛永通宝の大量生産体制に入るまで、それほど時間がかかっていない理由は、こうした鎌倉時代から続く私鋳銭専門の大規模鋳造業者に下請けに出していた可能性が近年にわかに高まっています。それは、江戸時代に金座、銀座がある程度幕府直轄事業であったのに対して、銭の鋳造は民間業者の挙手制であった理由も予測できます。銭の業者は全国各地にたくさんいたため、入札にしたほうが費用が安く済んだ可能性があるのです。

少なくとも鋳型や工場の発見で鎌倉時代後期ごろから、私鋳銭は国内で大規模鋳造されていたことが確定しました。これらの私鋳銭は、かならず、工場の近辺で「鍛」として流通していた銭銘が多く作られています。

銭文によって撰銭されてしまうなら、撰銭されない銭を作ってしまえばいいと考えたのかもしれません。


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