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日本の公鋳貨幣 番外編1「米」「布」「砂金」

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庶民の決済手段に東西差を生んだ律令政府

朝廷が発行した皇朝十二銭の最大の特徴は、国家の支払い手段としての意義を第一に考えており、民間人の間で用いる事をあまりにも軽視していたことです。この朝廷の意識が、度重なるデノミや貨幣の品質の劣化につながっていくのです。

貨幣が民間での支払い手段として、畿内を除くほとんどの地域で機能しなかった以上、7世紀からの国内の民間人は、朝廷が成立する以前から伝統的に貨幣として使われていた品物で自分たち用の売買を行っていました。売買の対価として使われた品は、おもに、「米」と「布」そして「塩」でした。

これらの品々が価値があるものとして通用する事はもちろん朝廷も知っています。たからこそ、自分たちの発行した銅銭の估価(貨幣と物品の交換基準)を、米や布で表すようにしていたわけです。そもそも租庸調という3種類の税が原則物納であることも、貨幣より、貨幣として用いられていた物品のほうが収入として望ましいと朝廷が考えていたからでしょう。

奈良時代以降のこうした物品貨幣で面白いのは、律令制が施行されたために、地域によって使用される商品に明確な差が生じたことです。

東京都西部の多摩川沿いに、調布市という自治体があります。実は、この調布という地名は調布市だけを指すわけではありません。生まれも育ちも東京の人に聞くとわかりますが、調布とは元々調布市よりももっと広い、多摩川の北岸一帯を指す言葉なんだそうです。そういえばかなり海側によった、東急東横線の「田園調布」も調布ですね。これは、多摩川一帯が奈良時代に律令制で定められた租庸調のうちの調(特産物の税)を、布で納めていた地域だったからです。

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調布エリアでは、渡来人によってアサが持ち込まれ、多摩川の水にさらして布を織っていました。この布を調として朝廷に納入していたのです。余談ですが、調布市の西隣は府中市です。府中とは「国府の真ん中」という意味であり、調布地域で作られた布は税として府中へ集められていたことがわかります。

調は「銭納」も認められていましたが、地方での銭は豪族や国司がほぼ独占しており、納税者である庶民が手にする事はまずなかったはずです。そのため、調布の人びとは、布を織ることで調を納めるしかありませんでした。

調で納めるべきと指定された布は二種類あります。ひとつは「調絹」。すなわち絹織物です。絹は高級品ですので、貴族しか身につける事ができませんでした。法律として租庸調が明文化が為された大宝1(701)年の大宝律令では、

調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする

となっています。ちなみに大宝律令は、とりあえず整えた法律という側面が強く、実際の施行に際してはより細かな規則を加えた天平宝字1(757)年制定の養老律令を用いています。こちらでは

調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする

と、なっており、大宝律令で規定したより短めの布でもよいと改訂されています。

もうひとつが、そのものずばりの「調布」です。こちらは、麻や綿などを素材と下布になります。絹を生産できない人はこちらで調を納めることになります。大宝律令では

5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分

養老律令では

4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分

となっています。調布は、養老律令により価格が下げられているようです。ちなみに、奈良時代の度量衡については詳細がよくわかっておらず、様々な学者から説が出ています。この布の幅や長さも正確にはわかっておりません。

調布エリアでつくられる布は、最高級品として朝廷に認識されていました。京から遠く離れた片田舎の関東で、京の貴族すら最高級品と舌をまく立派な布が作られていたのには、理由があります。

すべての原因は養老6(722)年にまでさかのぼります。

8世紀は朝廷が東北地方へ進出を進めていった時期でした。吸収した東北の人びとを日本に組み込んだ事で人口が増加し、食料不足という問題が生じたころでもあります。また、支配地を広げるために税収を増やす必要もありました。722年に奥羽を領土に組み込んだ朝廷は、ふたつの問題の解決に向け『百万町歩開墾計画』を発表しました。この計画は「民を10日間労役させて良田百万町を開墾しよう」というものでした。

町とは面積の単位です。当時の面積の単位が現在の町と同じかどうかわかりませんが、1町が約3,000坪=9900㎡ですので、100万町歩とは、99億㎡=9900㎢の田んぼをつくれというものです。岐阜県の面積が9,768.20㎢ですので、ざっくりいうと、岐阜県の面積の田んぼを10日間で作りましょうということです。

そんなこと、当時の人口や技術力から考えて当然不可能です(というか、現在でもほぼほぼ不可能でしょう)。そのため、多くの学者は、この計画は朝廷としてのスローガンを謳ったに過ぎないと考えています。

スローガンだったのか本気だったのかは、当時の朝廷の人以外ではわかりようがありません。そんな事よりも大事なのは、東北地方を支配していく中で朝廷の頭の中心にあったのが、『良田』、即ち稲作であったということです。

今でこそ米は北海道でも作れるように品種改良され、私も好んで北海道米を買うようになりましたが、30年くらい前までは北海道米は安くてまずいものというイメージが定着していました。それは、北海道が稲作に向いていないからです。それを北海道の農家さんが苦労して品種改良をしたことで現在の美味しい北海道米は誕生したのです。

稲はそもそも南国の植物です。奥羽の農民……いやもっと言うならば古代の日本で関東より東の地方で、朝廷が求める量の米を生産する事は机上の空論でしかありませんでした。朝廷の支配者層は畿内のことは知っていましたが、奥羽にまで足を運んでおりません。そのため、国内で稲が生育に適さない土地があるということにまで配慮が及んでいないのです。

たとえスローガンであったとしても、各地に朝廷から派遣された国司は、形だけでも百万町歩を開墾しようとするしかありません。米作りの基礎が整っていた西日本では無理矢理開墾が行われました。農民の負担は大幅に増え、班田を増やすことが目的の計画であったにもかかわらず、班田を放棄して逃げる農民が増えていきました。とはいえ、米の生産量は増えました。

当時の米は、貴族以外が普段食べることはなく、むしろ保存がきくので飢饉に備えて貯蔵されたり、取引の媒介として用いることが主目的でした。米の生産量が増えた事で、それまで以上に米が取引の現場で使われるようになりました。そのため西日本では、朝廷が発行した皇朝十二銭よりも庶民が使いやすい貨幣として、米が定着しました。

ところが東日本はというと、開墾をしたところで稲が生育しにくく米の生産量は伸びませんでした。つまり、市場で貨幣として使える程潤沢に米が流通しませんでした。米が貨幣として使えないだけならそれほど問題はありませんが、朝廷が求めていた増税増収も達成できませんでした。

東国の国司はそこで、米に代わる納税品を考えます。候補に挙がるのは、租庸調で名指しで指定されている物品「塩」と「布」です。このうち塩は、海に面している地域でしか生産できません。そこで東日本では、布の生産が盛んになりました。これらの布が世の中にあふれ、東日本で貨幣として一般化していきました。

もちろん、米と布が集積される京や畿内では米と布どちらもが貨幣として使用されています。

こうした銭以外の貨幣が定着し銭の裏で使用され続けたことが、結果的に10世紀に朝廷が貨幣発行を停止しても、滞りなく経済活動が行われた理由となりました。世の中が止まらず動いている以上、為政者として新たな貨幣を発行する必要はありません。10世紀になると、藤原氏の権勢も絶対のものとなり、政争による急な財政出動を行う必要もなくなったため、米と布の支払い能力に朝廷も頼ることとなりました。

この時期にもうひとつ、朝廷は貨幣を発行しないでも頼る事のできる決済手段を手に入れています。それが、売官です。朝廷は、例えば内裏の工事費用を負担したものに、官職や位階を与えることを対価としました。この時代になると、少なくとも上流階級の人びとの間で朝廷の権威は機能するようになっていたため、さらなる官位を求める下級貴族や有力貴族は多かったのです。

荘園制度が定着した事により貨幣化しなかった金(GOLD)

さて、最後に「金(GOLD)」についてです。日本が東北を領土に加えていく過程で、それまでほとんど産出しなかった多くの金が発見されました。といっても、古代のことなので鉱山を掘り進むというよりは、砂金のような形で表出したものを集める作業が鉱業です。これらの金は、貴族への献上品として袋詰めされたり、あるいは溶かして塊にする事で都へと送られました。ですが、こうした貴金属に貨幣的な性格はなかったことがわかっています。

平安時代末期に成立した説話集『今昔物語集』の巻16第31話『貧女仕清水観音給金語』はこの時代の黄金の使われ方を記録した貴重な史料として貨幣史研究者たちに知られています。

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貧しいけれど、熱心に清水寺へ通っていたある女性が、妊娠してしまいます。彼女は元々家もないため、子どもを産む場所すらありません。自らの不幸を嘆いた女は、友人の女性と清水寺へ行き、二人で観音へと恨み言と祈りを行いました。やがて二人は観音の御前で寝入ってしまいました。その晩、友人の夢の中に謎の僧侶が出てきて「彼女に恵みを施すので、これを彼女に与えなさい」と言います。朝、友人が目を覚ますと目の前に金三両が入った包みがありました。

しかし、欲がでた友人はこの包みをネコババしてしまいます。次の日の夜、彼女の夢の中に再び僧侶が現れ「どうして彼女に金を渡さなかったのか」と責め立てます。恐ろしくなった友人は、翌日この金を彼女のために使い罪滅ぼしをするのです。話題になるのはこの時の罪滅ぼしの描写です。

一両を以て、直米三石に売りて、其れを以て家を買て、其の家にして平安に子を産つ。今二両を売て、其れを本として、便り付てなむ有ける。

この文から、友人はわざわざ金三両のうち一両を米三石で売り、この米を貨幣として用いて家を買っていることがわかります。これはつまり、本説話が語られた当時(平安時代末期)に、金は貨幣として認識されていなかったという証拠です。

金が貨幣として認識されていなかった理由は明確です。それは、平安時代はまだ荘園と身分制度がしっかりと機能していたからです。東北で産出した金は、珍しい献上品として各荘官から荘園の主や朝廷へと送られ、そのまま貴族の宝物庫で眠ったり、あるいは、貴族間の贈答品としてのみ用いられました。つまり、実際に金に触れたことがあるのは、貴族だけです。

ここまで出回らずに管理されてしまうと、米や布のように貨幣的な機能を有することはできません。日本で金貨や銀貨の利用が始まるのは、荘園制度が崩壊する中世、それも室町時代後期まで待つ必要があるのです。


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