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日本の公鋳貨幣17『輸入銭解禁』

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成立直後から大混乱だった鎌倉幕府

鎌倉幕府の成立時期については、どの出来事をきっかけと考えるかで様々な学者が自説を発表しております。最近の教科書では『文治の勅許』、すなわち、頼朝に守護・地頭の任命権が与えられた文治元(1185)年を成立年とする説が掲載されているそうです。しかし、幕府というのは将軍がいる陣幕を表す単語であることを考えるとかつての征夷大将軍に任命された建久3(1192)年説でもいいのかなという気もします。

このように鎌倉幕府の成立年について論争が起こるのは、この政権が、当初は朝廷の傘下に存在していた地方政権に過ぎないからです。

平氏が貴族化し弱体化していく流れを見ていたからか、あるいは元々流刑人の子どもで中央とはかけ離れた幼少期を過ごしていたためか、頼朝は生涯なるべく朝廷と関わらないというスタンスを取り続けています。かれの思想は奏功し、関東で独立独歩の自治政権を勝ち取ることに成功するわけですが、あくまでも鎌倉幕府は朝廷のルールに従属して成立した政権でした。

ですが、第16回で書きましたが基本的に源氏というのは中央政界に返り咲きたい人びとの寄せ集めでしかありません。それなのに頼朝が幕府を構えた当時の鎌倉という土地は、都会に憧れた人びとの目から見ると、考えられないくらいのど田舎。一旗揚げようと頼朝のもとに集ってきた荒くれ者たちが、この田舎でくすぶり続けるとは、頼朝以外誰も考えていなかったでしょう。

予想通り、頼朝というカリスマが亡くなるとすぐに幕府内で勢力争いが始まってしまいます。魑魅魍魎が跋扈する鎌倉幕府の運営を、頼朝の嫡子でまだ18才の源頼家に任せることに不安を覚えた幕府の要人たちは、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』で描かれる『十三人の合議制』を制定し、話し合いで政を動かそうとしました。が……そのなかで、頼家の外戚にあたる北条時政が力を握り、有力御家人を次々と暗殺。ついに、幕府の実権を奪い取ってしまうのです。

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↑江戸時代に描かれた北条時政象。自らは桓武平氏の一門と名乗っていたが謎が多い

この後源頼家は若くして亡くなり、その弟でさらに幼い源実朝が三代将軍に就任。時政は彼の政治を補佐するという名目で合議制を無視し執権という座に就きます。ですが、鎌倉幕府を恣にしようと娘婿である平賀朝雅を将軍につける計画を画策し、娘である北条政子や息子である北条義時と対立。最終的には計画が露見し、元久2年(1205)年、子どもらによって隠居に追い込まれてしまいました。

時政に代わり新たな執権となった北条義時は、北条氏権力の確立と幕府の安泰の両立に努めます。が、侍所別当の和田義盛が北条家に反抗。安泰どころか、建略3(1213)年に大合戦を引き起こしてしまいました。(和田合戦)。このような、関東の荒くれ者たちによる武力紛争が絶えない状態は、ついに承久元(1219)年に将軍・実朝が暗殺されるという最悪の結果を招いてしまうのです。

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↑承久記絵巻より北条義時。

頼朝の血筋が途絶え統治能力を喪失した鎌倉幕府は、朝廷に助力を懇願。当時の院を率いていた後鳥羽上皇に「親王のうち誰かを、代わりの将軍として派遣して欲しい」と頼みました。後鳥羽上皇は、源平合戦で壇ノ浦に三種の神器の草薙の剣を持ったまま沈み亡くなった安徳天皇の異母弟です。日本の歴史上はじめて剣を失ったままの皇位継承の儀式を行った天皇であり、儀礼を重視する朝廷にあって前例のない継承により非常に陰口を叩かれ苦労した人でした。なので、すべての苦労のきっかけとなった武士が嫌いでした。

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↑後鳥羽院像

当然後鳥羽上皇は幕府の申し出を拒否。結局、旧藤原北家から分裂していった摂関家の九条家が四代以降の将軍に就任し、北条家が政治面で九条の将軍を支えるということで決着が付きました。

北条家の幕府内での権力の完成とも言われますが、実質的には鎌倉幕府が朝廷の、しかも天皇ではなく貴族の家臣についたということであり、この時点で完全に関東での政治上の優勢も朝廷に持っていかれてしまったのです。

なので、鎌倉幕府の貨幣政策はますます朝廷に従って保守的になっていくかと思われました。が、ここで再び奇跡が起こるのです。

それがモンゴル帝国『元』の東侵でした。

再び、中国大陸から訪れた銭の波

といっても、元寇のことではありません。それよりもう少し前の話です。中国で北宋を滅ぼした女真族の国家『金』は、徐々に南宋を追いつめながら中国大陸北部全域を支配下に治めました。彼らは自らほとんど銭貨を発行せず、おもに支配下においた北宋の銭を使用していました。

ですが、ご存知のとおり北宋の中古銭はその殆どが北宋の亡命政権であった南宋の手により国外、特に日本に輸出されています。なので、金の国内ではあっというまに銅銭不足に陥ってしまいました。困った金は、敵対していた南宋政府の真似をし始めます。すなわち、紙幣主体の貨幣制度の整備です。

そして1211年、運命の日が訪れます。

急激に、勢力を拡大していたモンゴル帝国が、ついに金に対して牙を剥いてきたのです。モンゴルでかけ回っていた騎馬軍団が、雪崩を打って中国本土へ攻め入ってきました。本来、戦闘民族といっても過言ではなかった金の女真族ですが、このころになると長年の中国暮らしにより完全に漢民族化。あっという間に劣勢に追い込まれます。金は、大量の軍事費を捻出する必要に迫られ紙幣を濫発。ついには、追加で製造するにはコストが高い銅銭の使用を禁止してしまったのです。

こうして南宋だけでなく金からも、北宋銭は不要と見做され輸出されました。金は現在の中国北部を支配していた国家ですので、地理的な問題で、ほとんどが日本へ輸出されることになります。13世紀から14世紀にかけての100年間で日本が輸入した宋銭は1年あたり約2億5,000万枚、通算で約250億枚と試算されています。これは南北宋王朝が生産した銅銭の実に8分の1にもなる途方もない量です。

平清盛は南宋から九州へ渡ってきた宋銭を、瀬戸内海航路を整備して関西に持ち込みました。では金から渡ってきた宋銭はというと、九州だけではなく、例えば新潟や一度渤海を経由し青森、果ては平泉へと東日本にも続々と上陸しました。

関西ではすでに宋銭使用が根付いておりましたが、関東以東に暮らす人はそれを指をくわえて見ているほかありませんでした。そんな東日本にも貨幣が上陸したのです。もはや、貨幣を求める人びとの熱を止めることは国家の力では不可能でした。

さらに国内事情も追い風となります。

武家政権が誕生したことにより、貴族の荘園制度が大きく変貌しました。律令制度が崩壊したことにより、なあなあになってしまっていた年貢の制度が、武士による貴族からの荘園の切り分けや守護・地頭の配置によって引き締められたのです。鎌倉時代は前述の通り戦争が続いているため、徴収される税額も増えました。

ですが、13世紀は地球規模で農業危機が訪れていました。インドネシアのロンボク島にあるサマラス山の大噴火です。詳細な記録は残されていませんが、この巨大噴火により巻き上げられた噴煙は以後約100年に渡り地球の大気中に立ちこめ、深刻な日照不足と寒冷化を引き起こしました。つまり、従来のやり方で農民たちは、増えた税額分の農産物を納めることができなかったのです。

現在の我々の生活を支える技術の多くが第一〜二次大戦中に開発されたように、技術発展というのは基本的に危機から誕生します。鎌倉時代、続く不作に対応するため、牛や馬の糞を用いた肥料の改良と、米と麦を季節で交互に生産する二毛作が日本に定着しました。これら農業革命により、世界的な寒冷期であったにもかかわらず日本での農作物の生産量は増えました。

そこに、前回解説した物安銭高の市況です。この時期の朝廷は、貢納物の単位を米単位(米が取れない地域では絹布単位)で定めていたため、鎌倉幕府もこれに従って納税額を定めていました。年貢を納める側としては、米や布ではなく価値の高い銭で支払った方が得ということになり、銭の需要が飛躍的に増大しました。

こうして、朝廷や幕府の意向を無視した形で年貢の代銭納が盛んに行われるようになりました。代銭納という仕組み事態は、清盛の時代にも記録が見受けられる=朝廷が整備した制度であるため、完全な違法というわけではありません。とはいえグレーであることは間違いありません。ですが、記録を見ると鎌倉時代に入ってからとほぼすべての年貢が銭換算で納められるようになっています。このことが、いかにこの時代に全国に銭が普及していったかを表しています。

世の中が明らかに銭有利となり、町では銭で商品が売買されるようになっているわけですから、口では「物で貢納をしろと」と命じている支配層も銭での納税を喜んでいたことでしょう。余談とはなりますが、農民が銭を手にするには、二毛作などで過剰に生産した農産物を売る必要があります。なので、この時代〜定期市が各都市で開催されるようになりました。それまで荘園間の経済でしかなかった日本の商業に、一般人が加わり始めたことで、この後日本の経済は爆発的な成長を見せていきます。

鎌倉幕府の支配体制の完成により宋銭が公的な貨幣に

承久3(1221)年、かねてより鎌倉幕府を嫌っていた後鳥羽上皇が、幕府打倒の兵を挙げました。「承久の乱」の勃発です。カリスマ的な指導者がおらずゴタゴタが続いていた鎌倉幕府なら倒せるはずとの見込みでした。が、夫も子どももすべてを失った北条政子が、カリスマ性を発揮し、あれだけバラバラだった幕府の御家人たちをひとまとめにしてしまいます。

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↑江戸時代に描かれた北条政子像。実は、本人は北条政子を名乗っていないため本名は不明

朝廷軍はあっけなく敗れ後鳥羽上皇は流刑に、京には鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題がおかれることになりました。朝廷は鎌倉幕府に従属することになり、幕府は皇位継承までも管理できるようになりました。また、院の財政的基盤であった院領もすべて幕府に没収されたため、院政の時代がおわりました。真の意味で鎌倉幕府が日本を代表する政権に変わった瞬間です。

さて、朝廷が幕府に支配される形になると、地方の荘園から朝廷への納税額は激減していまいます。朝廷には、幕府子飼の権威だけ持つ集団として幕府に甘えて存続し続けるという選択肢もありましたが、朝廷はこれを受け入れませんでした。元仁2(1225)年、朝廷は「銭の賃借の利子を制限する法」を発布します。この法、裏を返すなら朝廷が宋銭の市中での使用を間接的に認め「宋銭を使う(銭換算で借金や出挙をする)ならこのくらいでお願いします」と人びとに伝えたということです。

頑に自らの資産である米と布の価値を守り続けようとした朝廷でしたが、その資産の源泉である荘園のほとんどを没収されてしまった以上、そんな小さなことにこだわっていられなくなったのです。朝廷への貢納が米や布のままだと、輸送コストがかかるため地方の荘官や武士が貢納をさぼる可能性が高まりますし、朝廷にはこれを咎める力もありません。ならば、銭ならまだコストがかからないし納めてくれるのでは?という希望込みの銭解禁令です。

この銭解禁にはもう1つの理由が隠されています。それは、収支サイクルです。納税手段が米であれば収穫の時期である秋、布であれば農閑期明けの春に一括で貢納されることになりますが、当時の朝廷にはこの収入が見込める時期まで食いつなぐだけの蓄えがもうありませんでした。それなら、多少納税額を下げてでも銭による分割支払いにしたほうが、窮乏した朝廷が生き抜く上ではメリットがあります。

朝廷を従えたとはいえ、体面上は「朝廷の軍事機関」である鎌倉幕府も、朝廷が銭使用を解禁したのでこれに従うこととなります。権力を失った朝廷が曖昧な法しか作れなかったのに対し、鎌倉幕府の執権・北条泰時は、この朝廷の令を補足するように嘉禄2(1226)年により具体的な銭の価値基準を絹布換算にして定めました。

以後、織豊時代が訪れるまで、日本での納税の価値基準の単位は「銭」が中心になります。ちなみに、それまで絹布の長さを表す単位であった「疋」が、この時代を境に銭10枚(=10文)を表す単位として使われ出します。これは、泰時が定めた銭の価値基準に則ったものと見られています。


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