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日本の公鋳貨幣7「承和昌宝」

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7枚目に至りようやく元号を銭名に採用

さてさて、本格的に書く事がない皇朝十二銭が続いて参ります。

仁明天皇の承和2(835)年1月、「富寿神宝」の発行から17年後、朝廷は新たな銅銭「承和昌宝」を発行しました。

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これは日本で初めて、名前に年号を用いた貨幣です。

税収手段を次々と失っていく朝廷

『続日本後紀』巻四に書かれている本貨発行の経緯によると『富寿神宝発行後17年を経て、富寿神宝の価値が低落したので、新銭を発行した』とのことです。相変わらず併行通用を認め、承和昌宝1=富寿神宝10の価値で通用させました。和同開珎の発行から7枚目まで10倍10倍と価値を上昇させていったわけですから、この時代の和同開珎1枚の価値は一体どこまで下がっていたのでしょう。

この「承和昌宝」発行を契機に、朝廷の銅銭の発行間隔はどんどん短くなっていきます。銭はすでに民間で取引に置ける信用力を失っていたにもかかわらず、朝廷が次々と貨幣を発行した理由は、財政収入増加の狙いがあったからと考えられています。というのも9世紀中頃から、朝廷はまともな手段で収入を得る手段を失っていったからです。

順を追っていきます。富寿神宝を発行した嵯峨天皇は「薬子の変(平城太上天皇の変)」の決着後、変の中心人物であった兄・平城太上天皇を罰する事はしませんでした。関係者の処罰は最低限で終わらし、内政の再編に努めます。

『日本後紀』によると、弘仁8(817)年より7年連続で大干ばつが発生して餓死者が相次ぎ、朝廷は危機を迎えています。そこで弘仁9(818)に年は、新たな貨幣「富寿神宝」が発行されています。ですが、前回解説した通り、富寿神宝は朝廷の自業自得で思ったより普及しませんでした。

干ばつで荒れ果てた国土を再生させ税収を増やすために、嵯峨天皇が次なる一手として墾田永年私財法の改正を行います。朝廷の財産だけでは新田開発は行えませんでしたので、それまで面積制限を求めていた枷を外し、地方の豪族に田畑を開墾してもらったのです。

かつて、墾田永年私財法によって私有地が増えたことが、朝廷の税収減少のきっかけです。そのため、このような政策は長期的には朝廷の首を締める事になりますが、そんなことを言っていられないくらい目の前に差し迫った困窮が大きかったという事でしょう。開墾の枷を外したところで、広大な田畑を耕す労働力を集めきれないだろうから、一定以上は広がるまいという見通しもあったのかもしれません。

ですが、世の中には奈良時代から続く租庸調を納めきれなくなり土地を放棄した浮浪民や、干ばつで与えられた土地が荒れ果てて耕作地を失った浮浪民が大量に発生していました。こうした戸籍を捨てた浮浪民を、地方豪族は雇い入れて開墾に充てたのです。こうして、地方豪族や有力貴族の所有地がさらに増えていきました。

ともあれ、目の前の食料危機はこの開発により去りました。以降、嵯峨天皇の治世は安定しました。弘仁14(823)年には、弟の淳和天皇に皇位を譲り、太上天皇という形で政治に関与することにします。この譲位に、嵯峨上皇の側近として力をつけてきた藤原北家の藤原冬嗣は難色を示しますが当の上皇は気に留めませんでした。

ところで思い出して欲しい事があります。嵯峨上皇は、薬子の変の首謀者である兄・平城上皇を罰していませんでした。つまり、この時代も奈良には平城上皇が、上皇として暮らしているのです。京都には淳和天皇と、政治の実権を握っている嵯峨上皇、奈良には実質軟禁状態ではある物の、上皇の兄である平城上皇と、天皇と並ぶ権力者が三人も存在することいなったのです。

朝廷の緊縮財政によりなんとか財政再建に成功

当然、宮殿の維持費や人件費は3倍となりました。ようやく軌道に乗り始めた朝廷財政にとって、この支出ははっきりいって無駄でした。おまけに、嵯峨には多くの皇子皇女がいました。彼ら、彼女らの生活費も朝廷を圧迫しました。ここまで皇族が増えると、さすがに朝廷財政ではこの面倒を見る事は出来ませんでした。結局淳和天皇は、嵯峨の子どもたちの一部を皇族から除籍する臣籍降下という処置をして、皇室費を削減せざるを得ませんでした。(この臣籍降下された子どものなかから、後の源氏となる軍事貴族が誕生します。)

淳和天皇は、自らと権力を同じとする人間が3人もいるような特殊な時代に生まれたため、とにもかくにも皇室の財政改革を積極的に行いました。良吏を登用し地方官に大幅な権限を与えることで、荒廃した地方の田畑の再建を行いやすくしました。権力が増大した地方の官吏が悪さをしないように、地方行政を監視する勘解由使を再設しました。さらに、嵯峨上皇の息子に地方一国を任せる代わりに、自活を求める親王任国の設置や、朝廷が直接管理する勅旨田の設置、さらに、徴税分以外で自分たちの食料として荒れ果てた耕地をつかってもよいとしました。

天長10(833)年、数々の改革を実現し皇室財政の基盤を整えた淳和天皇は、皇位を嵯峨上皇の息子である仁明天皇に譲位しました。

初期の仁明天皇の治世では、特に目立った業績や事件は起きておりません。即ち、淳和天皇の政策は引き継がれていたものと思われます。承和昌宝は、ある意味、淳和の政策の総仕上げだったのかもしれません。貨幣発行が経済政策の最後に行われることは、平安時代によくあることです。

本貨幣はさらに銅生産量が減少した時期のものですのでさらに直径が縮小されています。およそ20〜21mmです。本貨幣以降の、朝廷発行の銅貨はほとんどがこのサイズになっていることから、本貨が、平安時代の貨幣の基準サイズとなったことが推測できます。文字は頂点から時計回りに「承和昌宝」となっております。

銅の品質も落ちており「富寿神宝」とほぼ同じでした。そして富寿神宝に比べて文字の画数が少ないため、偽造が簡単でした。例の新銭1=旧銭10の比価もあり、富寿神宝を熔解して承和昌宝をつくる偽造が流行ったと伝わっています。


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