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日本の公鋳貨幣6「富寿神宝」

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国史に記載されなくなった貨幣発行の経緯

嵯峨天皇の弘仁9(818)年、朝廷は新たな銅銭を発行しました。この銅銭を「富寿神宝」と言います。

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皇朝十二銭に関してはここら辺から書く事がなくなっていきます。理由は単純で史料が殆どないからです。何故ないのかって、そりゃあ、お金が使われなくなっていったからです。畢竟、朝廷が貨幣のことを考える必要も減少しました。

どの位朝廷が貨幣に興味を失ったかは、本貨の国史における扱いからも分かります。本貨発行経緯の記録は10世紀頃に六国史の続きを描く形で編纂された『日本紀略』の弘仁9(818)年11月の条に記されています。原文、そのまま全文記します。

『詔曰、云々、改銭文曰富寿神宝』

以上です!

翻訳すると「天皇の命令で銭の名前を富寿神宝にしろと言われたよ」でしょうか。同時代の出来事を書いた別の国史『日本後紀』では、欠文となっている箇所になりますので、これが、本貨に関する国書の全ての記録となります。

なので、これ以降の皇朝十二銭の広がりを知るには、国史以外の史料との重ね読みをしていく必要が出てきます。手元の本を片っ端から読んで書ける話題を探してみますが、今後、更新に時間がかかるかもしれませんので、ご容赦ください。

貨幣の信用を大きく損なった平安初期の内乱

桓武天皇の天皇親政により、朝廷の権力構造は変化しました。が、旧銭とほぼ同じ形状、材質を用いながら「隆平永宝」は旧銭の10倍の価値をもつというめちゃくちゃな価格設定により、朝廷が発行する貨幣への信用はがた落ちしていました。

それでも隆平永宝が流通していたのは、やはり桓武政権の強さがあったからと考えられます。ですので、延暦25(806)年に桓武天皇が亡くなったあと、隆平永宝の流通が一気に滞ったのは当然と言えば当然の帰結でした。桓武政権の大胆な政策を支えていた貨幣発行益は、みるみる減少しました。

本来、こういう時こそ新天皇を中心に朝廷は改善策を打ち立てるべきなのですが、残念ながら桓武天皇と、彼の長男である平城天皇の仲は生前から険悪でした。そのため、父の死後の平城天皇は桓武政権の功績の否定から入りました。貨幣政策の改善などどうでもよかったのです。

親子の仲違いの原因は、平城天皇が寵愛した藤原薬子でした。薬子は平城天皇の妻となる予定の自分の娘を世話するべく宮女となりましたが、娘を差し置いて本人が平城天皇と恋仲になってしまいました。当然、桓武は激怒し、薬子を宮中から後宮へと追放します。ですがいつの時代も恋は盲目です。平城天皇は父を憎むようになっていました。

平城天皇は即位後すぐ薬子を呼び戻し、彼女と、彼女の兄・藤原仲成を政権の中枢に据えます。さらに、今後父の意思を継いで皇位を継ぎそうな異母弟の伊予親王を謀反人と糾弾し、自死に追い込んで排除しました。

ですが、このような平城天皇の苛烈な一面に皇族は畏れおののいた……わけではありませんでした。なんといっても何百年も皇位を巡っての殺し合いを繰り返してきた一族です。まして、平城天皇は病気がちですぐに亡くなる可能性がありましたし、その息子たちもまだ幼かったのです。どの皇族にも天皇への可能性が生まれたことで、朝廷内では再びどろどろの皇位争いが始まりました。この争いの隙をつくように、平城天皇の寵愛を受けた薬子と仲成兄妹の専横がはびこることとなりました。

大同4(809)年、案の定、平城天皇は病に倒れました。が、皇族の期待とは裏原に、彼は一命を取り留めました。平城天皇は、自らの病気をかつて父・桓武天皇が殺害したと噂される叔父の早良親王や、弟の伊予親王の祟りと考えました。そこで平城天皇は弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を渡すと、決して京を離れるなという父の言いつけを破り自らは平城京へ逃げてしまったのです。

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(↑嵯峨天皇)

驚いたのは薬子と仲成兄妹です。せっかく権力を手にしたのに、このままでは朝廷の中枢から離れてしまいます。二人は平城太上天皇(譲位した前帝をこう呼称します)を説得しますが、彼の決意は揺るぎませんでした。

こうして嵯峨天皇の時代が始まりました。嵯峨天皇は、父・桓武天皇の忠実な後継者といってもよい人物でした。そのため、平城太上天皇が桓武時代の地方管理を改めた政策、「観察使」の制度を元に復そうとしたのです。平城太上天皇は激怒しました。

太上天皇と天皇の兄弟喧嘩は、薬子・仲成兄妹にとっては、再び朝廷の中枢へと返り咲くための願ってもいないチャンスでした。兄妹は対立をけしかけます。平安京と平城京で、「二所朝廷」と言われる朝廷の分裂が起こりました。

大同5(810)年3月、嵯峨天皇は正式に観察使を廃止しました。もちろん平城太上天皇は弟の決定に明確な不満を表明しました。そして、前帝の権限で平安京から平城京への遷都せよとの詔を出したのです。嵯峨天皇よりも自分の方が権力があるという公への宣言であり、嵯峨天皇は驚きました。

とりあえず、嵯峨天皇は勅命に従うふりをして、都の再整備のため桓武時代からの忠臣である坂上田村麻呂ら武官を平城京へ派遣して牽制しながら奈良の様子を探らせます。平城太上天皇の行為は、明確な天皇に対する反抗で自らの復位への野心表明ですので放っておくわけにはいきません。嵯峨天皇は決意し、兄の排除の準備を始めました。この動きを知った平城太上天皇は、自ら東国へ赴き挙兵を企てますが失敗。捕えられ出家させられました。

混乱の元凶と言われた藤原薬子は、乱の失敗に際して服毒自殺。藤原仲成は、平安時代では珍しい死刑に処されました。死刑の規定はあっても、「穢れ」を異常に嫌う朝廷が死刑を実行する事は極めて稀でしたから、どれだけ藤原仲成が朝廷に憎まれていたかがわかります。なお、嵯峨天皇はこの後、国家が死刑を行う事を禁止しています。実際この後約200年間、日本には死刑制度は存在しなくなりました。

世の中が安定した程度では貨幣は普及しなかった

事件が解決した大同5(810)年9月、年号が「弘仁」へと改められました。以後、嵯峨天皇の治世は安定しました。様々な政策が立てられ、朝廷の発展が始まりました。この改革が落ち着き、朝廷が再度天皇を中心とした体制を取り戻した弘仁9(818)年11月、冒頭の通り「富寿神宝」発行に手を付けるに至ったのです。

ですが、この戦乱の間に、貨幣の価値と信頼は地に落ちていました。貨幣は国家に信頼があれば流通すると勘違いされている人も多いですが、一度信頼が崩れた貨幣が再度普及することは極めて難しいです。このことは、ジンバブエ・ドルがどれだけ再普及をしようとしても失敗し続けたことや、中国の人民元がいまだに国際的な通貨として定着できないことなどを見れば明らかでしょう。貨幣が普及するには国家の信用よりも、実際に貨幣を用いる人びとの間での信頼関係の方が大事となります。

少なくとも隆平永宝までは、朝廷の力の及ぶ範囲には貨幣が流通していました。ですが、皇位を巡る内紛により価値の下落に歯止めをかける事が遅れた朝廷発行の貨幣に対する信頼は、もはや回復不能となりました。富寿神宝発行を皮切りに、嵯峨天皇はもしかしたら桓武時代くらいまでは貨幣が使われるようになることを狙っていたのかもしれませんが、すべては手遅れでした。

この時代から、貨幣の流通圏は急速に狭まっていき近畿圏のみに限定されるようになりました。本貨発行経緯の詳細が記されていないのは、朝廷がこの富寿神宝発行を、「失敗した政策」と認識していたからなのかもしれません。幸いな事に、嵯峨天皇は「弘仁格」という法令集の編纂事業を進めていました。そのため、発行の経緯などのは残されませんでしたが、本貨が何枚製造されたかという記録は、平安時代の貨幣としては珍しく比較的明らかになっています。

『類聚三代格』によると

弘仁9年〜12年(818〜821年)……5670貫文(5,670,000枚)

弘仁13年〜天長5年(822〜828年)……3500貫文(3,500,000枚)

天長6年〜承和元年(829〜834年)……1万1000貫文(11,000,000枚)

が鋳造されたそうです。

このころから日本では、鋳銭原料となる銅の生産や貢納が減少していました。それなのに、どうしてこれほどまでの富寿神宝を作る事が出来たのかといいますと、貨幣の劣悪・小型化を実行したからです。本貨幣の直径は約23mmとそれまでより約1〜2mm縮小されており、発行晩年に至るにつれさらに1〜2mm縮小しています。これにより、素材となる銅地金の節約に成功しました。

もちろん、この小型化は朝廷内で混乱を生じさせました。現在の造幣局にあたる鋳銭司は、原料銅を減少することで朝廷が要求する枚数の納入を実現しましたが、小型化された銭を納入された大蔵省はそれまでの銭と比してあまりにも小型だったために、この銭は失敗作なのではないかと疑い、納入を拒否する事態も起こりました。

江戸時代に、平安時代の歴史史料を再編集して発行した『日本逸史』には、「新銭の文字ははなはだ不明瞭であるが、多少の疵は通用に差し支えがないから収納するように」と、大蔵省に対してわざわざ命令が出された記録が収録されています。

含有金属量には、弘仁11年の記録で、銅5万1333斤に対して、鉛2万5666斤を加えたことが記されており、実質銅2:鉛1の割合の合金であったようです。

一枚あたりの製造費は、隆平永宝よりもはるかに下がったこの貨幣を、いったいいくらで朝廷が流通させようとしたのかについては、まるで記録が残っておりません。が、本貨以降に発行された貨幣が、例の如く新銭1:旧銭10の比価で発行されていることを鑑みると、本貨幣も隆平通宝の10倍の価格として発行されたのではないかというのが、多くの学者の統一した意見です。

なお、文字ははなはだ不明瞭と指摘されていますが、実際に出土する富寿神宝をみるとそれほど不明瞭とはいえません。が、鉛が多いので、当時から劣化でボロボロになっていたのかも知れません。


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