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日本の公鋳貨幣11「延喜通宝」

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善政の手本とされた「延喜の治」の実態をひも解く

「寛平大宝」発行の17年後の延喜7(907)年11月、

「前銭改鋳」

の詔が出ました。「前銭」とは寛平大宝のことであり、これを改めろという詔でした。

『日本紀略』に延喜7年11月3日く

「詔、改寛平大宝銭貨、為延喜通宝、一以当旧之十、新与旧並令通用之」

とあり、旧来のように新銭1:旧銭10で通用させようとしていたようです。

この令を発行した天皇は、醍醐天皇。

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↑醍醐天皇

藤原北家全盛の平安時代中期にあって、数少ない天皇親政に成功した人物とされています。その治世の安定があったからかどうかは不明ですが、この改鋳令により発行された「延喜通宝」は、約51年もの長期間発行されることとなりました。

醍醐天皇の安定した時代を日本史では「延喜の治」と呼びます。

と、ここまでは表向きの話。延喜の治が本当に醍醐天皇の親政だったかというと決してそんな事はなく、これは、後世、特に明治以降昭和初期までの人が天皇親政を過剰に美化した結果生まれた言葉と考えて構いません。

醍醐天皇が、なぜ天皇親政に見える政治を行えたかというと、先々代の陽成天皇の事を知る必要があります。

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↑陽成天皇が描かれた江戸時代の百人一首

陽成天皇は貞観18(876)年から元慶(884)年まで在位した第57代天皇です。彼が皇位についたのはわずか9歳のときで当然政治など行えませんでしたので、母方の叔父で藤原北家の棟梁である藤原基経が摂政に就任しました。

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↑『前賢故実』より藤原基経

基経の義父にあたる藤原良房が、日本史上初めて人臣から摂政についた人物ならば、基経は日本史上初めて関白という位に就いた人です。基経の代で、藤原北家の摂関政治体勢は完成することとなります。ただ、残された記録を見る限り、かなり難のある政治家だったようです。

藤原基経の代になり藤原北家の独走が始まる


基経と陽成天皇の仲は、当初から非常に仲が悪かったようです。元慶4 (880) 年には陽成天皇の下で関白兼太政大臣となりますが、両者の関係は改善されることなく、元慶6(882)年の陽成天皇の元服で決定的に険悪となります。基経は想い通りに行かない天皇に対して抗議の意味を込めて、関白の辞職を申し出ます。今で言うと、突然内閣総理大臣が自民党に相談せずに辞任するようなものです。当然、基経の申し出は受け入れられませんでした。すると基経は、大人げなく朝廷への出仕をボイコットしはじめるのです。(この出仕拒否は当時の摂政の儀礼的なものという意見もあります)

基経がかくも陽成天皇とうまくいかなかった背景には、陽成天皇の母である藤原高子皇太后の存在があります。藤原高子は、基経の実妹ですが、兄と大変仲が悪かったようです。彼女は彼女で宮中での権力を確保するために、兄の影響下にある女性を徹底して陽成天皇から遠ざけ、藤原家と縁遠い女性を重用します。

陽成天皇と基経の関係性の悪さの裏にあるのは、基経・高子兄妹の権力争いだったのです。

元慶7(883)年11月、宮中で貴族の源益が殴り殺されるという事件が起こりました。この事件の犯人は、謎とされていますが、後の史料には陽成天皇が殴り殺したという噂話が残されています。タイミングを計ったかのように事件の直後、陽成天皇が、神聖な禁中に厩をつくり馬を飼って楽しんでいた事が判明します。

ふたつの事件が基経による工作であったかはわかりませんが、この件は天皇に退位を迫る十分な理由となりました。元慶8(883)年、基経は宮中に公卿を集め会議を開き、公卿として陽成天皇に退位を迫る意思を決定。まだ少年である陽成天皇に彼らの意見を拒む政治力はありませんでした。

陽成天皇のあとに天皇となったのは、仁明天皇の第三皇子であった光孝天皇です。

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↑光孝天皇

が、この時点ですでに55歳と高齢でした。光孝天皇は、擁立の恩に報いるため、そして自身の高齢を理由に、太政大臣である基経に大政を委任する詔を出しました。これが、後に「関白」と呼ばれることになる制度の誕生の瞬間です。基経はこうして、朝廷、ひいては日本を恣にするだけの権力を手にしました。

光孝天皇は、温和で文化的な人物でしたが政治、特に宮中の権力争いについてはとんと疎い人物でした。なので「基経が自分の血を皇家に取り込み、今後も安定した政権運営を望むだろう」と考え、立太子を行わず、自身の息子達はすべて臣籍降下させたのです。臣籍降下とは、皇族の身分を離れ天皇の家臣となることです。

現在皇家に残る最も基経に近い皇位継承者は、藤原高子の息子で陽成天皇の弟である貞保親王でした。まだ、基経と高子の兄妹仲は悪いままであり、兄妹はバッチバチに権力争いをしていました。

仁和3(887)年、光孝天皇が重篤となりました。基経が次なる天皇へと推挙したのは、妹の影響下にある貞保親王ではなく、光孝天皇の第七皇子である源定省でした。源定省はこうして、光孝天皇が亡くなると同時に宇多天皇となりました。日本の歴史上初めて臣籍降下した身分から天皇に即位した人物です。

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↑宇多天皇。出家し、上皇となった後の姿

宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事としました。そこで左大弁であった橘広相に、文言を起草させ

「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」

との詔を発します。

天皇から個人に対する詔は、恐れ多いこととして一度辞意を乞うのが儀礼です。基経も一回目は辞意を乞いました。そこで宇多天皇は儀礼に則り再度、違った言葉を橘広相に起草させ、それを基経に送ります。通常であれば、天皇から二度もお願いされたら断るわけにいかないということで、めでたく詔を承諾するという流れになります。

ですが、ここで予想だにしていない事が起こりました。なんと基経は、2度目の関白要請を断ってしまうのです。

この拒絶の表向きの理由は、二度目に送った文章

「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」

にあるとされています。阿衡とは中国の殷王朝で、初代湯王を支えた伊尹(いいん)の別称です。伊尹は元々料理人でしたが、湯王にその才を見出され国政に参加したというほぼ伝説のような人物です。このことから天皇を支える摂政・関白のことを指す熟語として学者の間では用いられていました。

ですが、文章博士・藤原佐世は阿衡を基経に説明する際に、「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたのです。基経はこれに腹をたて政務を放棄し、とされています。この事件を「阿衡事件」と呼んでいます。

実際の所はどうだったのでしょう。宇多天皇に頼まれて起草文を記した橘広相は、娘・義子を宇多天皇の元に送り込んでおり、その間に皇子が産まれていました。つまり、絶対権力者である基経にとって、今後唯一の政敵となりうる人物でした。

広相は、文章博士の説明は言いがかりであり他意はないと抗弁しましたが、基経は一向に出仕しませんでした。関白不在による政治的空白は何と半年も続いたのです。ついに宇多天皇自らが基経のもとを訪れ慰撫につとめますが、基経は納得せず、結局広相を罷免し、天皇が自らの誤りを認める詔を発布する事で決着をつけました。

「阿衡事件」により、藤原北家の権力が天皇よりも強い事がこうして世の中に知れ渡りました。なお、基経は広相の流罪を求めましたが、若かりし菅原道真により阻止されています。

突如呼び戻され天皇となった宇多天皇は、就任早々に起きたこの事件によりいきなり恥をかかされた形となりました。宇多天皇の藤原氏排除の意思はこの時に決まったと考えられています。

藤原時平VS宇多天皇の争いを経て「延喜の治」へ


寛平3(891)年、基経は亡くなります。と同時に、宇多天皇は親政を開始。基経の嫡子である藤原時平を参議に加えますが、源能有など源氏の人物や、菅原道真、藤原北家の傍流でしかなかった藤原保則を重用することで、北家の権力を削減していきました。

さらに寛平9(897)年、宇多天皇は突如、息子である敦仁親王を元服させると譲位し醍醐天皇として即位させます。臣籍降下した身分である宇多天皇には、つねに正統な皇位継承者ではないという目が向けられる危険性がありましたので、そこを藤原時平に付け入れさせまいという狙いと考えられています。それを示すかのように、即位と同時に醍醐には、藤原家と縁のない自身の妹である為子内親王を皇后に仕立てて外戚関係を結ばせないようにしているのです。

こうして、藤原北家の影響力を極限まで削減し、時平の対抗馬として菅原道真を陰から支援することで、無事に自らの皇統を安定させた宇田太上天皇(上皇)は、醍醐天皇の裏で政治を行いながら、仏教にはまりはじめました。頻繁に高野山や比叡山、熊野山へも参詣するようになります。

この隙を時平は見逃しませんでした。

昌泰4(901)年、宇多上皇が留守の隙を狙い、時平は菅原道真に皇位簒奪計画を立てていたという嫌疑をかけ太宰府に追放してしまいます。宇多は慌てて内裏へ向かいますが、一歩間に合いませんでした。この事件を「昌泰の変」と言います。近年では、時平だけでなく、父の政治への関与を嫌った醍醐天皇も変に一役かんでいたという説が有力です。

醍醐天皇の后として時平の妹である藤原穏子が入内し、再び天皇家と藤原北家は蜜月関係となります。以後、藤原時平と醍醐天皇の二人掛かりの政権は非常に安定します。時平はまだ若く、同じく若年の醍醐天皇と気があったようです。そのため時平は自らが摂関職につくことなく政務を行っております。特に延喜2(902)年には、平安時代初の荘園整理令を出し、違法な手続によって立荘された荘園の取り締まりや、新規の立荘の禁止を行い徴税が円滑に行う制度をつくっています。

これでは、荘園により権力を得た藤原氏に不利では?と見られますが、ちゃっかり「成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外」となっているところが味噌です。日本の土地所有において知行書と呼ばれる由来書が大事とされるようになったきっかけでもあります。

「延喜の治」とは、醍醐親政下の治世というよりは、醍醐・藤原時平 連立政権の成功と言い換えるべき事象なのです。

無理矢理発行された延喜通宝の歪み

延喜の治の一環として発行された延喜通宝ですが、もちろん、すでに貨幣が通用しない時代でしたので、その購買力はお里が知れています。『大日本貨幣史』という本に、天慶2〜5(939〜942)年の延喜通宝がおもに流通していたと見られる時代の米1石あたりの市場での流通価格が載っております。それによると、延喜通宝1700〜1800文で、1石の米が買えた事になっています。

が、このデータを平時の価格と見るのは危険です。古代に市中の米の価格が記録されている場合、その多くが飢饉や戦時によるインフレーション時です。なので、当時物品貨幣として使われていた米そのものが不足しており、米を買うために貨幣が用いられたと見る方が自然でしょう。

さて、醍醐・時平政権は延喜通宝鋳造を命じた者の、その流通や生産についてはまるで興味をもっていないことは、その後、流通促進政策が一切出されていた形跡がないことからも明らかです。

となるのは、困ったのが、周防国にあった鋳銭司(造幣局)です。前々回位から何度も言っていますが、この時代の日本はすでに産銅量が圧倒的に不足しております。それなのに、朝廷は承和2(835)年に、一年間で1,100万枚銭を鋳造し納入することと定めていたのです。当然、そんな量の銭をつくるだけの銅は日本に存在しません。

が、朝廷からは納入数を改めるような指示はその後も出ることはありませんでした。中央政府はそんなことより、税である米を1石でも多く朝廷に納入するための荘園整理に夢中でしたから。当時の鋳銭司は1枚でも多く銭をつくるため古い銭を集めて溶かし、それで新たな銭をつくり始めます。銭の直径も小さくして1枚当たりに必要な銅の量を削減します。奈良時代の皇朝十二銭に対して平安時代の銅銭の出土量が少ない理由は、こうやってリアルタイムに回収され溶かされているからです。

それだけやっても、寛平年間(889年〜897年)以後は1年で50万枚しか納入できませんでした。目標値マイナス1,050万枚。焼け石に水です。

延喜通宝の鋳造命令に困った鋳銭司は、ついに禁断の手段を用います。現在の我々がつかっている10円玉は、強度を増すために銅95%・亜鉛・3〜4%・錫1〜2%を混ぜた合金を用いていますが、これを銅と言い張っています。「ならば極力銅を使わない合金で銭を作って、それを銅銭と言い張ろう」これが、平安時代鋳銭司の出した結論でした。

明治44(1911)年、造幣局の甲賀宣政博士による延喜通宝の成分分析データが残っております。延喜通宝は鋳造期間が長期にわたるため、成分のブレも大きいのですが、初期、すなわち延喜年間につくられたと見られるものは、銅73.2%・鉛、その他26.8%とそれなりですが、末期に鋳造されたものになると、銅3.16%に対して鉛93.39%、その他雑成分3.48%とほぼ純鉛銭といっても過言ではない品質となっています。

そもそも、何故銭貨に銅が用いられるのかというと、「固く丈夫」で、「腐食しにくい」からです。対して鉛は、「柔らかく」「腐食しやすい」という間逆の性質を持った金属です。柔らかい金属のため、鋳造後の文字もすぐに欠けてしまいます。延喜通宝は、発行当時から、文字がまともに読める銭は稀であったそうです。

延喜5(905)年に、醍醐・時平政権により編纂された、律令制の施行細則である『延喜式』には、本貨について以下のような記載が残っています。

「およそ銭文は一時でも明らかであればみな通用せしめる。もし撰銭を行う者があれば、状に従って科責する」

延喜通宝は、あまりにもの状態の悪さで、受け取り拒否が相次いだのでしょう。そのため、延喜通宝という文字のどれか一字でも判読できれば、それは1文として使えという事をわざわざ明文化する必要があったのです。もし、撰銭(銭を選別し受け取りを拒否したり、1文以下の価値で取り扱うこと)を行えば罰するとまで記さなければならないくらい……。

それでも、本貨幣は顧みられる事もなく51年間も鋳造され続けました。そのため、平安時代に発行された貨幣としては現存数がもっとも多い一枚となっています。


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