日本の公鋳貨幣38『慶長小判』
江戸時代に入ってから長らく更新が止まっていました。
とある企業さんの歴史ビデオの制作を行ったり、
編集を手伝っていた本が書店に並んだりと、色々忙しくしておりましたが、ようやく一息つけそうです。
しかし、最近は、書店売りの本をあまり編集しなくなってきたので、年に3冊くらいはやっておかないと感覚が鈍りますな……。
江戸幕府の貨幣基準となった『慶長小判』
今回は、徳川幕府すべての金貨の基準となった『慶長小判』についてです。
発行開始は慶長6(1601)年。関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利した翌年です(1600年には、鋳造が始まっていたという説もあり)。関ヶ原の勝利によって、実質的な日本の支配者となった徳川家康が、たった一年で発行を実現した全国通用用の金貨です。そのスピードから、間違いなく戦前から準備を始めていたものでしょう。
それができたのは、後藤庄三郎光次とともに、江戸で武蔵墨書小判を発行した経験があったからでしょう。この小判最大の特徴は、それまで墨書きで記していた検品印を、打刻に変更したことです。一筆一筆手書きで記さなければならなかったこれまでの小判と異なる作り方により、製造が簡易化され、生産効率が大幅に上昇しました。
鏨(たがね)を用いたござ目を前面に施しております。慶長小判は、最も最初に作られた江戸幕府の小判ということでかなりきめ細やかなござ目となっています。ここまで手間をかけると、せっかく製造工程を簡易化したのに意味がありませんので、この後に発行されていく小判では、どんどんござ目が粗くなっていきます。
家康肝いりの政策だったこともあり、含有金量も歴代の小判で最も高く、明治時代に行われた造幣局による分析では平均して856.9/1000という結果がでています。さらにそのほかの成分もほとんど銀であったため、世界的に見ても非常に品位の高い金貨であったと言えるでしょう。
製造の過程でどうしても出る銅や鉛などの不純物も、精錬時点で可能な限り取り除かれており、戦国時代から連綿と続いていた金屋の技術を、後藤庄三郎光次が結実させた、日本金工芸における最高傑作のひとつといって構わないと個人的には思っております。
慶長金を製造した金座の収益スキーム
さて、慶長小判に関しては、かなり細かな情報が、コレクターの方々の手により提供されていますので、ここでは、コレクター向けではない情報。すなわち、鋳造機関の仕組みについて解説していこうかと思います。慶長小判を筆頭とする江戸幕府の金貨は、「金座」という組織が鋳造しました。金座は、大判を除くすべての金貨の鋳造を独占的に請け負った組織で江戸時代約260年間存続し続けています。
組織は
・金座全体の管理を行う後藤役所
・金地金の製造を担当する金座人役所
・貨幣の成型を担当する吹所
と大きく三つに分かれていました。
後藤役所は、金座全体のトップである御金改役(おんかねあらためやく)を拝命した後藤家の屋敷のことです。御金改役は、後藤一族が代々世襲で受け継ぎました。
一方、金座人役所と吹所には、少なくとも慶長小判を鋳造していた時代には役所としての建物はありませんでした。このころはいわゆる手前吹が行われていたからです。手前吹とは、職人が自前の工房で貨幣を鋳造することです。小判職人である小判師たちは、自己資本で小判の元となる金を購入し、自宅で精錬を行っていました。
小判の元となる金を売っていたのは、下金屋と呼ばれていた金銀の下取り業者だったり、あるいは、幕府直轄鉱山や、領内で新たに鉱山を開いた大名たちです。幕府直轄鉱山で算出した金は、一度後藤役所に売却されたのち、これを小判に成型したいと申請した小判師の間で入札が行われました。
小判師たちはこうして手に入れた金地金を、仕様通りに精錬・成型し、再度後藤役所に買い取ってもらう事で生活をしていました。後藤役所は、小判の検品と鑑定を行い、成果物を勘定奉行に買い取ってもらうことで運営費を賄っています。
このような運営形態であったため、17世紀初頭までは小判師たちは民間企業として町奉行が管轄し、後藤役所は勘定奉行が管轄するという態勢で運営が行われていました。
金座という組織を一つにせず、分割管理を行っていたのは、金を扱ううえで不正を行わないか相互監視をするためであったと言われています。が、後藤家をはじめ、これまで全国流通規模の金貨の大量生産など誰も行ったことがありませんでしたので、人件費や納期に対する見通しは大変甘く、入札でも過大な見積が当たり前のように通っていたそうです。
金貨の製造費が高くなってしまっては、幕府にとっての貨幣発行の旨味が減少しますので、結局、元禄11(1698)年に、3つの役所はすべて後藤屋敷の中に集められ、一括で管理されるようになりました。これが、一般的な人々がイメージする「金座」でしょう。この役所の統合の際に慶長小判の生産が終わっております。
ちなみに、金座は基本的に江戸にあったのですが、出張所という形で越後の佐渡と京にも作られています。佐渡は、佐渡金山で算出した金をその場で小判の形に成型するため、京は、銀文化圏であった関西で、それでも金貨が必要となった時のために設けられていますが、両座とも規模は江戸よりはるかに小さいです。
また、駿河(現在の静岡県)にも駿河小判座という金座が作られていました。こちらは、家康が駿河に隠居した慶長12(1612)年に開設されていますが、家康が死去した元和2(1616)年には、江戸の金座に統合されています。
古銭屋さんなどでは、時々慶長小判を鋳造された座の名前付きで販売していることがあります。これは、小判に刻まれた小判師の験極印でその小判師が所属していた金座を推定したり、古くからの伝承による区分になりますが、実は、史学的な観点では、明確にこの小判がどこの座で鋳造されたものかと断定はできないとされています。
金座の業務
ここからは金座の業務を詳細に述べていきます。
まず、後藤役所。その最も重要な業務は先にも述べた通り、仕上がってきた金貨の検品を行い、小判として勘定奉行に納品することですが、そのほかにもいくつか役割があります。
まず、全国の鉱山から産出した金のなかで幕府に上納される分の鑑定です。上納に用いるための金は、必ず後藤役所へ送られます。後藤役所は、全ての金の鑑定を行い品位を確定します。江戸時代において金は、御金改役の鑑定を受けた後でなければ、上納や支払いに用いることができませんでした。この鑑定業務は、元禄期以降金座人役所の小判師が行い、御金改役が鑑定に立ち会うという形に改められました。これは、慶長金発行の間に、御金改役が、金位をごまかし私腹をこやすという不正がたびたび発生したからです。
鑑定が済んだあとの金を、収める蔵の鍵の管理も後藤役所の大事な仕事です。
その他、献上するための金貨の包封や、金貨を必要とする両替商に対する金貨の引換業務、各種金地金の買収や後藤役所を通さなかった金の取り締まりも行っています。
後藤役所には、年寄役、改役、並役、役所詰、役所詰雇人、役所付などの職階がありました。この職階は、後藤家の御金改役と同じく世襲制でした。後藤役所で働く役人は、幕府の役人というよりは、後藤家の配下の武士という認識だったようで、自然と、後藤家の名代として外交的な活動もしていました。
続いて金座人役所の仕事です。金座人役所の役割は金座全体の事務官および技官とされていましたが、実際は金地金の精錬工程と製造工程も担当しており、職人という側面が強いです。金座人役所の正規職員は、座人と呼ばれ、民間の町人でありながら、後藤家ではなく勘定奉行の支配下におかれています。諸役は世襲ではありませんでしたが、金座人に任命される家は20戸に限定され、当番制でした。また、これら役人の仕事を手伝う為に、座人勤向、手伝と呼ばれる下働きの職員が勤務しています。下働きの人間は幕府の管轄から外れ、金座人が雇った職工になります。
後藤役所の役人と金座人の役人は、このように同じ組織に属していながら、厳密には全く異なる命令系統で動いておりました。このことにより、お互いの仕事を監視していても、妙な忖度が起きないようになっていました。実際、幕府からは同格の職人として扱われています。
最後に吹所の仕事です。吹所は貨幣鋳造全般を担当している部署とされていますが、主に後藤役所と金座人役所が、相互監視により幕府の求める品位へと精錬した金地金を、小判型へ装飾する仕上げを担当していました。職人の長である、吹所棟梁のもとに小頭、平職人と職能や経験により職階が設けられています。記録によると、400~500人の職工で、1日5万両程度の小判を作ることができたと言われています。
慶長小判の鋳造工程
次に、実際の金貨の製造工程を見ていきます。いかに金座という組織が、厳しい監視の元運営されていたかが分かるかと思います。
まず後藤役所のもとに各地から集められた金地金の入札を行い、金座人役所へ売却します。金座人は預かった金を一定の品位になるまで溶解・精錬したのち、棹上の金地金に凝固して、後藤役所へ戻します。後藤役所は戻ってきた棹金の品位検査を行います。
この検査をパスした棹金は、再び金座人役所へ戻されます。職人たちは棹金を打ち延ばし、「延金」と呼ばれる形状にします。そして、再び後藤役所へ戻します。後藤役所は、「延金」の量目が規定通りであれば合格の極印として、中央に「大桐」を打刻します。
大桐が打刻された延金は、三度、金座人役所へ戻されます。金座人は延金を四分割し、この四分の一片の断面を後藤役所の役人に見せます。切断面から、含有金に混ぜ物がないことを確認してもらい、ようやく、金の精錬工程は完了となります。規格通りに精錬された延金は、周縁部に細かくちいさな桐の刻印をうち、ようやく小判への細工が許されました。
金座人はこの金を、およそ一両の量目に合わせて「桐」の極印が見える形で荒く切断して吹所へ渡します。
吹所では極印のない面を打ち延ばして、荒く小判型を作って、後藤役所へ提出します。後藤役所では、金座人が荒く切ったおよそ一両を正確な一両に揃え、葉桐の極印を打ち、吹所へ戻します。ここまできて、ようやく、吹所は完全な小判への仕上げが許されるのです。
できあがった小判は、最後に後藤役所に提出され、検査に合格すると、各種花押や極印を打ち、ようやく完成となりました。
ちなみに、この製造方法や監視体制は、江戸時代には極秘とされていました。江戸時代当初の金座関係者は、職人の雇い入れから製造方法、発行高などは口外しないことを約束した血判起請文を提出していたからです。
幕府がここまで金貨を重視した理由
江戸幕府が金貨を重視した理由は、米を売買の中心として成立している武士社会の制度を、貨幣経済という形の中へ落とし込むためであったと考えられます。戦国期を経て、貨幣不足に陥った日本で、豊臣秀吉は貫高制(年貢を貨幣で納入する)を諦め石高制(年貢を米によって収める)にすることにより、日本全国を統治しました。
ですが、100年に渡る戦国の時代を勝ち抜くうえで、戦国大名たちは自領内の農業・鉱業を大いに発展させました。その結果、一般庶民が生産物を市場で売買することが日常化していました。さらに、農村に入り生産物を買い付けそれを都市部へ売りに行く仲買人まで現れ、貨幣需要の増大は止まることをしりませんでした。
石高制を強いた武士にとっても、戦が終わった後の生産力の増大は頭の痛い問題でした。自領内だけではさばききれない大量の米が取れるようになっていますので、徴収した米の売り先がありません。領内ではさばききれない年貢を大坂や江戸などへ持っていき売る必要がありました。
こうした需要にこたえるために、幕府は、全国どこでも通用する均質な貨幣というものを用意する必要があったのです。
金貨には徳川家康の計算もありました。それが、金銀銅、3種類の貨幣のうち金貨の序列を実質的に高めたところです。これら3種類の貨幣のうち、伝統的に金貨と銀貨は、秤量貨幣として使われていました。ですが家康は、東国で流通していた金貨を武田家の使い方を参考に、計数貨幣へと変更してしまいます。
すなわち慶長小判1枚を1両とし、
慶長大判1枚=10両
慶長小判1枚=1両
慶長一分金=1/4両(1分)
という四進数による計数体形です。
計数貨幣にすると、政府は、実態価格よりも高額の額面であっても貨幣として流通させることができます。つまり、江戸幕府の本拠地である東日本で流通していた金貨での売買の方が、常に銀遣いであった西日本よりも有利なレートで交換できるようになるという戦略でした。
そして、このレートを半永久的にするために、江戸幕府は各貨幣の交換比率を以下のように定めています。それが
慶長金1両(17.85g)=銀50匁(187.5g)=銅銭4,000枚
です。
ところが、幕府にとって誤算となったのがこの公定価格を、商人が守らなかったということです。日本は中央政府が長い間貨幣を発行してこなかったため、需要と供給量に応じて商人が貨幣や商品の価格を自在に変える変動相場制を発展させており、それで世の中の経済を勝手に回していました。
江戸幕府が発行した金貨、銀貨、銅貨という3種類の貨幣も、商人にとっては変動相場でやり取りするための投機対象が増えたということでしかなかったのです。春先は、米1石を金1両で売ることができたとしても、収穫の時期である秋口には米があまるため米価は下落してしまいます。それを防ぐための相場の固定でしたが、平和な時代ですので、武士の武力がやがて、商人の経済力にやがて屈服していくようになりました。
変動相場が浸透したことにより、高品位で高い価値を持っていた慶長金が、発行にかけたコスト分の購買力を担保できない事態が発生しました。以後、幕府は、金貨のコストを下げたり、あるいは公定価格の強制を命令したりと自分たちの給料である米価格の安定に腐心することとなります。
それでも、慶長金はおよそ80年に渡って、本金貨は金座により鋳造が続いたのです。
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