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日本の公鋳貨幣43『元和通宝』


前回ご紹介した慶長通宝は、私鋳銭が多いとはいえ、数がそれなりに発見されていることや、中国大陸からの発見例もある(貿易支払いに使われた可能性が高い)ことから、幕府発行の可能性が高い&少なくとも、通貨として使用されていたことは間違いなさそうです。

実は近い時期に、もう一点江戸幕府が発行を試みたとされる銅銭があります。それが「元和通宝」です。

元和通宝 銅銭

加速する幕府の撰銭取り締まり

徳川幕府は永楽通宝の優遇を禁止しすべての銭を鐚銭として扱うことにしたものの、納税時の永楽通宝は、通常の4倍の価値をもつと設定してしまったがため、結果として、撰銭を推進することになってしまいました。

経済が発展していくに従い銭貨自体の需要も増大していったため、永楽通宝の退蔵や撰銭により必要な銭貨の絶対量はますます不足しました。

幕府は定期的に全く同じような文言で撰銭令を出し続けましたが、効果は出ませんでした。当然です。撰銭が行われる原因である「銭貨の絶対数の不足」が未解決なのですから。

天和3(1683)年から貞享元(1864)年にまとめられた、2代将軍徳川秀忠の事跡録『東武実録』によると、元和2(1616)年5月11日についに幕府は、撰銭を行ったものを取り締まる法律を出しました。

元和二年丙辰五月十一日
鳥目ノ制法ヲ諸国二相触ラル

『東武実録』

この法『鳥目の制法』はこれまで通り、6種類のものすごく状態の悪い銭を除き、鐚銭全て等価で扱えという命令です。が、後半に、法に反した者は顔に焼き印を押すという刑罰が追加されています。なかなかに重い刑罰なのですが、それでもやはり撰銭はなくならず、やがて個人に対する取り締まりから、町中・年寄の連帯責任を命ずるようになり、所轄代官の責任追及にまで及びました。最後には、撰銭を摘発すれば褒賞金を払うというところまで取り締まりはエスカレートしていきます。

取り締まりにより銭貨の不足した時代

この取り締まりの間、幕府は元和3(1617)年に新たな貨幣を鋳造したと伝わっています。これが「元和通宝」ですが、慶長通宝と同じく幕府の公式記録が残っていないうえ、慶長通宝よりも発見されている数が圧倒的に少ないため、試鋳だけして実際に発行はされなかったと推定されています。

この元和3年発行も、怪しいものです。本貨について記された書物で最も古いものは、18世紀末にあたる寛政年間に発行された古銭書『和漢泉彙』ですが、そこには、

元和通宝、後水尾天皇御字、東照神君御治世、元和元年

『和漢泉彙』

とあります。元和元年は1615年ですので、いきなり通説と異なっています。同じく寛政年間にまとめられた古銭好き大名・朽木昌綱の著作『古今泉貨鑑』には、

元和通宝銭、按ズル二此銭径リ八分、重サ一銭一分、背穿ノ下、一ノ字アリ、
又、銀銭アリ、径リ八分重さ一銭二分、共二後水尾帝元和年中二鋳トコロト云、
今ノ世見ルニ、楽銭ノミ多く座銭ハ少シ

『古今泉貨鑑』

と記されており、具体的な鋳造年ははぐらかし、代わりの情報として鋳造者は後水尾天皇ということが追記されています。

後水尾天皇像

これが、少し下って19世紀初頭に草間直方が著した『三貨図彙』になると

元和通宝、百九代後水尾院、元和三年コレヲ鋳サシム、銀銅ノ二品アリ

『三貨図彙』

と、ようやく元和三年説が出てきております。

現在通説となっているのは三貨図彙に記された元和三年発行説ですが、この説が有力誌されているのは、草間直方の研究結果がただの貨幣好きにとどまらずマクロ経済学的な分析まで含んでいることの信頼度からでしょう。別段確証があるわけではなさそうです。

また『古今泉貨鑑』と『三貨図彙』においては、鋳造を命じたのは109代後水尾天皇と記されていますが、これも怪しいです。後水尾天皇は、豊臣秀吉の猶子でもあった人物で、徳川家康の後ろ盾もあり天皇へとなれた人物ではあるのですが、慶長20(1615)年に「禁中並公家諸法度」の制定で元和年間にはほとんど権力を縛られておりました。

貨幣鋳造を行うにも何を行うにしろ、必ず京都所司代を通じて幕府に伺いを立てる必要があったはずで、仮に後水尾帝の望みで作られた貨幣だったとしても、その最終決定は必ず幕府が下していたはずです。

そのため、「これらの記録は間違いで字を書いたのが後水尾だ」という説も古くからありますが、もちろんこちらも確実な証拠はありません。

余談ですが、後水尾天皇といえば、万里小路事件に際し、藤堂高虎に恫喝されたことで有名となった天皇でもあります(笑)

築城三名人としても知られる藤堂高虎

原型となったのは永楽通宝の金銀銭?

現存する元和通宝には、銀銭と銅銭2種類が見つかっております。いずれも母銭を新たに作り、文字を丁寧に鋳出しているものしか発見されていません。それなりの規模の工場を持つ鋳物師たちが関わっていたことは間違いなさそうです。


図録日本の貨幣 2(日本銀行調査局編/東洋経済新報社)に掲載されている元和通宝 銀銭

銀銭にも銅銭にも背面に漢数字が打たれており、銀銭は「一」から「丗(三十)」までの数字が方孔の上部に。銅銭は「一」が方孔の下部に配置されています。

元和通宝 銅銭 裏

この背面の特徴は、秀吉が賞賜用に作らせたと伝わっている「永楽通宝 銀銭」や、「天正通宝 銀銭」、「文禄通宝銀銭」といったものと完全に一致しています。このことから、元和通宝 銀銭は徳川幕府が嘉秀吉の例に倣い、賞賜用として小数のみ鋳造したものと考えられています。

銅銭については、銀銭より鋳造数は多かったようですが、それでも、現存数の少なさから流通を前提として作っていたとは思えません。ですが、銅の品質の高さや、文字の線の明瞭さ、銭容の安定具合などは慶長通宝よりはるかに高いレベルに達しており、むしろこの後に作られる寛永通宝、特に水戸鋳造のものに非常に似ていることが指摘されています。

このことが、銅銭は寛永通宝を鋳造する前段階の試鋳貨だったという説の論拠となっています

私鋳銭がほとんど作られなかった元和通宝

ところで、慶長通宝は明らかに民間による私鋳貨とみられるものが大量に発見されているのに、本貨にはそれらしきものが見当たりません。

これは、先述のどんどん厳しくなった鐚銭使用の徹底取り締まりが、民間における私鋳の機運の萎縮を生んだからと考えられます。本当に本貨が通説通り幕府が鋳造した貨幣であったとしたら、その萎縮はなおさらでしょう。慶長通宝の時とおなじノリだけで私鋳しようものなら、焼き鏝を押し付けられるほどの重罪認定されてしまうわけですから。

そう考えると元和通宝は、本邦において、貨幣の私鋳が罪悪であると認識されたもっとも初期の貨幣といっても良いのかもしれません。


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