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日本の公鋳造貨幣46「慶長大判」


流通しないことを前提に作られた貨幣

江戸時代初期の貨幣を順々に紹介していきましたが、あえて一枚だけメジャーどころを外しておりました。それがこちら、

慶長大判


みんな大好き「慶長大判」です。公式に徳川幕府の貨幣制度に組み込まれた公鋳の貨幣ではあるのですが、そもそも市中での売買で用いることを想定しておりませんでした。ある意味、私鋳銭などよりも、貨幣らしくない貨幣であったと言えるでしょう。

10両=100万円超の超高額貨幣

慶長大判は1枚10両。すなわち小判10枚分の価値をもつと設定された、超高額貨幣です。寛永通宝換算ですと、4万枚にも上ります。1両は、米1石を購入できる金額を基準としております。米1石=約150㎏ですので、

スーパーでお米を5㎏購入すると、大体2000円程度ですので、1㎏=400円。これを1石にあてはめますと、1両=米150㎏×400円=6万円となります。

が、慶長金の精度を設定した江戸時代初期は、まだまだ米が高級品だった時代です。スーパーで購入できる米というよりは、ブランド米位の価格で計算した方が的確でしょう。売られているブランド米ははだいたい5㎏=で3000円~4000円でしたので、1㎏=700円で計算しましょう。慶長金の1両=米150㎏×700円=10万5,000円。

慶長大判は10両ですので、10万5,000円×10=1枚で105万円という計算になります。

庶民がそのような価格設定の貨幣をもつことはまずなく、ほとんどの人は目にすることもないまま一生を終えたことでしょう。

使用目的は下賜あるいは献上用

本貨幣の使用目的は、徳川家や大名から家臣への褒賞、や献上でした。そのため、そもそも世の中に必要とされている量が小判や一分金に比べると圧倒的に少ないです。むしろ、大量生産でないことが伝わる方が希少性が生まれ価値に繋がるとも言えます。そこで、大量生産をしやすいように極印打ちのみに製造方法が改められた小判と異なり、極印に加え、一枚一枚に製造者の手による墨書きの署名が行われていました。

本貨幣の鋳造を行っていた機関を『大判座(判金座)』と言います。初代座主は、後藤四郎兵衛家の五代目当主・後藤徳乗。豊臣秀吉に命じられ、天正大判を手掛けていたその当人です。大判座は、以降も後藤四郎兵衛家の当主が代々その座主を務めています。


天正大判

後藤徳乗は、金座で金貨鋳造を一手に担っていた後藤庄三郎光次の師匠にあたる人物。

後藤四郎兵衛家は京の名門彫金一族として知られていましたが、徳川家康へ江戸への出仕を相談された時に、高齢を理由に辞退。代わりとして一番弟子だった、橋本庄三郎(後の後藤庄三郎光次)を名代として派遣したというのは、以前解説した通りです。

その後、豊臣家が衰退し江戸幕府が誕生したことで、光次が金座でぶいぶい言わせることになるとは、徳乗はまったく想像もしていなかったことと思います。幕府は、小判制度を完成させてくれた光次の師匠・後藤四郎兵衛家に対して、礼として大判の鋳造という名誉ある仕事を与えました。とはいえ、初期の大判座は決して幕府直轄の組織というわけではなかったようです。

徳乗は、慶長13(1608)~17(1612)年にかけて、豊臣秀頼の頼みで天正大判(大仏大判)を鋳造しています。慶長の幣制が開始されたのは慶長6(1601)年でしたので、大判座が、幕府直属の金工と認識されていたらこのような行為は許されなかったと考えられます。

発行当初から十両では流通せず

慶長大判は、慶長の幣制が成立した慶長6(1601)年から鋳造されたであろうことはわかっていますが、このような経緯もあり、発行当初から幕府の公定価格設定とは乖離した価格で流通を認められていました。一応公式とされている鋳造枚数の記録も16,565枚しかなく、全国流通にはまるで足りていないことも、この特別扱いを許しました。

そもそも、恩賞および贈答用です。目上の者から与えられた特注の金貨を、そう気軽に両替して手放すことは考えられなかったことでしょう。とはいえ、急な入用などで市場に流通することはありました。ただその場合は、両替商は比較的シビアに価値を算定していました。

慶長大判は美しく仕上げるために、あえて3%程度の銅を加えて加工しています。こうすることによって、純金よりも黄金色の輝きが増すのですが、言い換えると慶長大判は慶長小判や慶長一分金よりも、金含有量が少ないということになります。

厳密に慶長小判に合わせて金額を算定すると、慶長大判は7両2分の価値しかありませんでした。両替商は、7両2分に、美術・工芸品としての価値を加味して、大体8両2分として慶長大判を引き替えたそうです。

このことからもわかるように、本貨幣の価値は、金そのもののというよりもやはり工芸品としての価値が大きいものでした。特に京都の名工である後藤四郎兵衛家の当主が、手書きで墨文字を書いてくれるという価値は非常に高かったのですが、金に墨で文字を書いているわけですから、当然のように触ったり時間が経つことで、墨書ははがれていきました。

こうなると、ただの7両2分の価値を持つ金塊にしかすぎません。そのため、慶長大判を受け取った貴人は、墨書がはがれてしまったら大判座へ持ち込んで、墨書の上書きを依頼しました。この際大判座は手数料として金一分を受け取っています。お習字一回で、2万5000円相当の収入と考えるとかなり大きく感じますが、そもそも枚数が少ないわけですから、この依頼はそれほどありませんでした。

むしろ、大判座の主な収入源は、室町時代から磨いてきた技術を全面に押し出した金細工制作や、重さをきちんと統一した分銅の制作でした。特に分銅は、全国の両替商で、江戸時代を通じて使われ続けています。後藤分銅と呼ばれた分銅は江戸時代日本の度量衡の基準とされ、その制作は後藤四郎兵衛家にしか許されていませんでした。

後藤分銅

現存する、慶長大判の墨書から、慶長大判の墨書を行ったのは、五代徳乗とその実弟長乗、そして七代顕乗、九代程乗の4人であることが判明しています。書かれている墨文字は、「拾両後藤」の文字と後藤家当主の花押です。ですが、前述の通り本貨幣はそもそも10両として通用していません。おそらくここでの10両の文字は、戦国時代から使われてきた大判を数える単位としての金1枚(10両)のことと認識されていたのではと、私なんかは思っています。

ちなみに大判座は、寛永2(1625)年より江戸詰めを命じられており、8代目即乗が、江戸へ下向しています。本貨幣の墨書が1代飛ばしになっているのは、京と、江戸、2か所の大判座をそれぞれ後藤四郎兵衛家の本家筋にあたる人間が運営していたからでしょう。

慶長大判は、慶長小判と同じく、元禄大判通用開始の元禄8(1695)年まで通用が許されていました。ですが、本当に通用していた貨幣かというと、決してそんなことはないということだけ覚えておいてください。

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