見出し画像

日本の公鋳貨幣番外編2「紙幣の始まり」

前回はこちら

平安時代に誕生した紙を使った支払い法

2024年に本邦の紙幣が刷新されます。ところで日本の紙幣はいつごろから誕生したかご存知でしょうか。実は、紙幣の原型と言えるものは、皇朝十二銭が下火になり始める平安時代中期ごろから使われ始めているのです。

皇朝十二銭は、使えなくなっても地金(金属)として売る事ができるから辛うじて普及させることができました。が、紙幣はそうもいきません。当時、紙は確かに超高級品でした。ですが、金属のように頑強なわけではありませんので、人の手を渡り歩くとすぐに破れてしまいます。貨幣として使うにはあまりにも頼りない素材でした。

そもそも、紙の価値というのは文字を書けるということが第一にあるわけです。となると、額面がすでに書かれた中古の紙に、価値を持たせようという発想が、すでに異常であることは想像がつくことでしょう。

が、このようなあり得ない事が平安時代中期ごろから日本で起こり始めたのです。もちろん、平安時代の紙幣的なものは、朝廷が発行した公的なものではありません。が、極めて公的な人びとが、公的機関での支払い手段として用いていました。

米と布の輸送コストを下げようとした切符系文書

寛平6(894)年、菅原道真の進言により、遣唐使が廃止され、日本と中国大陸との公的な関係は終わりました。が、民間での交易は続いていました。特に10世紀中頃に成立した宋との交易は盛んで、11世紀末には日本側の拠点となっていた博多港で、宋が発行した銅銭が流通し始めています。

ですが、これは博多だけの話であり、国内のほとんどの人は米や布で売買を使っていました。米も布も銅銭と比べると相対的に体積が大きく、重たいものでした。なので高額取引を行うような機会が多い人は支払いに際して重たい米や布を運搬するための輸送コストに頭を悩ませていました。

そのコストを削減するために使用され始めたのが、各種下知状でした。紙幣のような使われ方をし始めた下知状のことを「切符系文書(きりふけいぶんしょ)」と呼びます。

切符系文書の起源は、朝廷や、東大寺などの有力社寺が、諸国に宛てて発給した切下文(きりくだしぶみ)や、国下文(くにくだしぶみ)、国符(こくふ)等に求める事ができます。いずれも、官庁や公家、寺社が、関係の深い商人や地方の有力者などに作業を命じた書類です。これらが中世中期から後期に至って切符という呼称にまとめられました。

ヘッダーの画像は延長4年(926)2月13日付で、太政官の下にある民部省符から、大和国に宛てて出された国符です。その内容は、弘福寺が不当に収公された寺田を返還するよう大和国を通じて政府に求めてきたのに対し、それを認可し返却を命じるものとなっています。

切符には、諸国の有力者に作業を一方的に命じるだけでなく、発給者の出納機関に支払いを命じるといった内容も含まれています。どういうことかというと、例えば、地方の有力者に荘園の主である寺が土木工事を切符で依頼したとします。その際、工事の作業料は、京にある寺の出納機関から米100石で受け取る事と記しておきます。地方の有力者は仕事完了後、切符を寺の出納機関へ持ち込む事で切符に記された代金を受け取ることができました。

これは、寺から見ると実物の支払いの代わりに紙を用いて支払いを行ったとみることができます。もちろん、実際にはその後に米や布が貯蓄から出て行ってしまうわけですが、それでも、文字が書かれてしまった中古の紙切れ一枚が一時的な支払い能力を得ることに成功しているわけですから、東アジアの中でも貨幣制度の定着が遅れていた日本にとっては大きな進歩です。(もっとも、この時お隣の中国・宋では、世界初の兌換紙幣制度が完成しておりますが)

さて前回、平安時代中期以降、徐々にですが経済が発展していたということを書きましたが、経済が発展した事で貸上(かしあげ)という金融業者が誕生しました。

古代、日本には出挙という制度がありました。元々は公共政策の一環として始まっており、豊かな貴族や寺が、翌年の作付けにこまるような貧しい農民に種籾を貸してあげるという制度だったのですが、時代が進むにつれ、有力者が無理矢理種籾を貸付け、それに高利をかけることでさらなる収入を得る手段として利用されました。貸上はこうした出挙を管理する人びとから発展していきました。、日本最初期の金融業者です。

切符系文書は、こうした貸上に持ち込んで売ることができました。つまり、譲渡性ももっていました。支払う側が特定の宛先に限定される以上、紙幣というよりは現在の為替手形に近いものですが、間違いなく日本の紙幣の原点となるものです。

貸上は、切符系文書の仕組み上、買い取ったものを発行元に持ち込むだけでは、額面以上の金額を得る事ができません。なので、書かれている額面より割安で切符系文書を買い取りました。そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、満期を迎えるか、納品物を納めれば満額を支払ってもらうことができる切符系文書をわざわざ途中で売る人というのは、今すぐお金が必要な困っている人という事です。

なので、切符系文書を用いた売買は、売る側にとっても、買う側にとっても、輸送費を抑えたい発行する側にとってもWin-Winの取引といって良いでしょう。この自由に売買が行えるという特徴があったからこそ、切符系文書はうまく機能しました。

ですが、平安後期になると貸上が切符系文書を買ったという記録が急に見られなくなります。これは、発行元である貴族や寺社から、切符系文書の使用に関して何らかの圧力があったと考える方が自然でしょう。

切符系文書が自由売買を行わなくなったことで、譲渡性・流通性が低下しました。紙幣はその場に実際の価値のあるものがなくても、その人が売買を補償して支払いを行ってくれるという信用(この場合は切符系文書が確実に米や布に絶対に変えられるという信用)を担保として流通します。ですが、貸上が切符系文書の買取を行わなくなった事によって、信用が崩れました。これは紙幣流通の大前提と逆行する動きです。日本で本格的な紙幣の流通が始まるまでには、まだまだ時間がかかったのです。

続きは以下↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?