大河ドラマから見る日本貨幣史11『米がなければ麦を食べる!』

第20回『家康への文』は、桶狭間前夜の織田・今川両勢力の思惑をうまく描いていて面白かったですね。気が付けば、信長の心を鷲掴みにしている十兵衛の描写もとてもよかったです。

ちなみに劇中で信長が「丸根砦に元康が仕掛けてきたら、火を放って撤退しろ」と命令していたのはうまい演出だなと思います。元康が裏切ると見越してそれがばれないようにするという信長なりの気遣いなのでしょう。

史実では元康は丸根砦を全力で攻撃し、わずか2時間で攻略しております。おまけにその足で北の善照寺砦攻略へ向かっていますので、けっこうガチで、今川軍として尾張攻略の先鋒を務めていたようです。(まあ、交戦途中で義元は首を取られてしまうのですが)信長も丸根砦に関しては、時間稼ぎのために見捨てている節がありますしね……。

かつては上洛を目指して京へ進軍したと言われていた今川義元の進軍説は、率いていた兵が2万5000人であることや、そもそも京の権力を抑えたら日本の代表になれるという戦国時代のゴールの線引き自体が、後の世の人が歴史を解釈して気づいたことなので、「嘘」であるとされています。江戸時代の軍記物などの影響が長い間残っていたというのが実情でしょう。

そんな日本を動かす大きな戦が目前に迫った状況なのに、われらが主人公の十兵衛殿は、食う米にも困る状況で越前で浪人をしています。米がないから質屋に金を借りに行く有様です。時代劇でよく見るシチュエーションではあるのですが、彼らのいう「米」が「米」じゃないということは忘れがちですよね。

昔の日本人は、雑穀を米に混ぜてご飯の嵩増しを行っていたということはよく知られています。16世紀の史料の多くによると、当時の人々の「飯」とは麦飯を指していたようです。当然、浪人へと身をやつした明智家が白米・玄米のみの食事をできたとは到底考えられませんので、明智家のいう米はほぼ麦飯だったのでしょう。

江戸時代後期に出版された風俗百科事典の『守貞漫稿』によると、麦飯とは、『粳(うるち米)5ː麦5、或は粳(うるち米)3ː麦7で炊いたもの』だったそうです。これは江戸時代の記録ですが、日本人は昔から「食事」のことについては事細かに記録をしており、戦国時代にも麦飯についての記録はたくさん残っています。特に僧侶は、寺の儀式を後任に譲る際の資料にするためや、修行の一環としての日記を残しており、日々の生活の様子が記されています。

長楽寺住持の賢甫義哲が永禄8(1565)年の正月から9月にかけて記した日記『長楽寺永禄日記』には『麦を雑して食する』という記述が大量に記載されています。比較的裕福であった僧侶すら麦飯が主食であったことがわかります。この日記によると麦飯は味が悪いのか単品で食しておらず、茄子汁をかけて食べたり、あるいは再度「干飯」を混ぜて食べたりしたようです。

奈良興福寺の塔頭多聞院が、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけての140年を記録した『多門院日記』にはさらに具体的な記録が残されており、例えば永禄10(1567)年6月8日の記事では『米一石ウル代八百廿七文一斗一升二合ツツ 小麦七斗六升代四百文一斗九升ツツ』とあります。米1石(約150kg)が827文だったのに対して、小麦7斗6升(約114㎏)が400文であったことがわかります。つまり米に対して小麦は約3分の2の価格で売れたことがわかります。

米も小麦も収穫ができない6月なので穀物の価格が多少高くなっておりますが、多門院日記のほかの記録をみるに、おおよそ小麦は米の半額で買うことができたようです。

多門院は、現在の奈良県にあたる大和ですのでこれは上方の価格です。では、関東はどうだったのでしょう?『神奈川県史』に編纂されている後北条氏時代の米と小麦の価格の記録によると、永禄10年の後北条氏領内における100文で買えた米と麦は、米1斗2升、麦3斗5升であったそうです。なんと小麦は米の3分の1の価格で買えています。これは、関東以東が米作に適していなかったため、小麦のほうが生産量が多かったことが関係しています。

さてさて、なぜ米と麦と混ぜて食べていたのかに関しては「米がめったに手に入らない貴重で高級な食べ物だったから」……と考えがちです。が、厳密にはそれでは理由の半分です。

もう半分は、米が貨幣だったから

前述の『多門院日記』でも『米一石ウル』と書かれていることからわかる通り、日本では古代から米は緊急時に確実に換金ができる準貨幣として扱われていました。なので、年貢にとられなかった備蓄米というのはいざというときの農民の貯金だったのです。幸いなことに日本の気候では、ひえや粟、小豆に大麦と、栽培できる穀物の種類が多岐にわたりました。つまり、米を貯金していても、代わりとして食べられるものが多かったのです。農民や庶民はできるだけ貯金を切り崩さないよう、米を水で極端にふやかして食べるおかゆや、麦飯、雑穀米などの調理法を発達させました。

これはヨーロッパと日本の歴史の大きな違いなのですが、意外と見落とされがちです。ヨーロッパは、日本よりも土地がやせているにもかかわらず、古代ローマの生活に憧れて、元々西アジアの植物でありイタリアより北には不適であった小麦の栽培に注力しました。その結果、雑穀の栽培技術の確立が遅れ小麦が不作となった年の餓死者の数は大変なこととなりましたし、農家の貧困は日本以上のものとなりました。また国家が養える人口も、複数種類の雑穀をこそこそと民間人が勝手に栽培する東アジアに比べ極めて少なくなりました。中世ヨーロッパの戦争の動員人数がアジアの戦争と比べて極端に少ないのは、食料が万年不足していることの裏返しなのです。

日本も江戸時代に米本位制度を採用し、年貢を米のみと定めた際にヨーロッパと同じ事態に陥っています。いわゆる天明の大飢饉など国家規模での飢饉が江戸時代に異常に増えたのは、年貢米による収入を増やすため、米の生育に当時適していなかった関東以北で米の生産ばかり行ってしまったからです。

昔の教科書では、四公六民、あるいは五公五民といった高い年貢率が江戸時代の農民を苦しめたというような習い方をしていましたが、これは江戸幕府の政を否定したい明治政府が意図的に流したプロパガンダでした。実際の年貢率はニ公八民、もしくは三公七民位であり、薩摩藩など極端に財政状況が悪い藩でようやく四公六民くらいだったようです。

我々が想像するよりははるかに米を手元にもっていた江戸時代の農民でしたが、それでも、貨幣を得る手段として、多少無理をしてでも米を食べずに貯金していました。結果、麦飯や雑穀米という文化は、昭和初期まで日本全国に残ることとなりました。

米の換金市場が安定して存在したおかげで、日本では江戸時代から米を対象とした先物取引市場が世界中のどこよりも早く発展しました。日本の先物取引市場は素晴らしいものであったと、様々な経済形の本に書かれる事実です。ですが、米相場の過熱は飢饉発生時に米価つり上げを狙い米を売らない業者などの出現を招き、無意味な餓死者の増加を招いています。

そういえば最近は、コンビニなどで日本を代表する昔ならではの健康食として麦ごはんのおにぎりが脚光を浴びています。ですが、そもそも麦飯は貧しかったからでも健康に気を使っていたからでもなく、家計の知恵、いわゆる節約術やケチり方から誕生した、せこいご飯なのです。輝かしい歴史とされるものの元をたどるとこういう、しょうもないものであったという例は案外他にもあるような気がします。

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