見出し画像

日本の公鋳貨幣24「永楽通宝」など明銭

前回はこちら

室町幕府はなぜ銭を発行しなかったのか?

前回、さらっと中国大陸の皇帝が3代の永楽帝に変わったことを書いてしまいました。永楽帝は、古銭マニアではない人も一度は聞いたことがあるであろう古銭『永楽通宝』の名前のもととなった明の皇帝です。永楽通宝が日本で作られた貨幣だと思っている人も多いのではないでしょうか?ですがこれは、中国「明」でつくられた、れっきとした明銭です。

画像1

日本の古代の朝廷は、財政が苦しくなるたびに新貨幣を鋳造して発行益を得ていました。なので、室町幕府も同じことを行えたはずなのです。すでに民間人が銭貨を私鋳できるくらいまで鋳造の技術力が上がっていましたし、国内で銅の採掘も再開されていたわけですから。実際に、南朝の後醍醐天皇は独自の貨幣を発行しようと計画を立てています。

つまり、室町幕府も貨幣を発行しようと思えばできたはずなのです。

では、なぜ行わなかったのか。それは、貨幣を発行するメリットが、小さな小さな室町幕府にはなかったからです。

国家が貨幣を発行する最大のメリットというのは、経済発展の促進と、それに伴う発行差益(シニョリッジ)の獲得や税収の増加です。が、1枚1文の銭にかけられる発行差益には限りがあります。製造費用が1円の貨幣の額面が100万円はやりすぎです。これは貨幣をばらまき納税手段として回収するうえでも、経済発展の促進のうえも同様です。

政府として貨幣の発行で収入を得るには、広い範囲に普及させられるという大前提が必要となります。ですがそもそも、室町幕府は御料地(直轄地)をほとんど持っていませんし、守護や鎌倉府、各地方の探題がそれぞれの土地を支配している状態です。

貨幣を発行しても普及させる先がないのです。

また、幕府軍と呼べる奉公衆の規模が小さかったことも貨幣の必要性がない理由でした。戦争が続いている状態でしたが、基本的には局地戦の繰り返しでしたので、中国や元寇の際の鎌倉幕府のように、国境線をすべて軍隊で守る必要がなかったことも大きいです。やはり広大な国土の国境線をぐるりと守るとなると軍事費が嵩み財政を圧迫してしまいます。対して、日本は海に囲まれた天然の要塞でしたので、よほどのことがない限りこの防衛費が必要とされませんでした。いわんや、軍事力の大半を守護に任せてしまった室町幕府においてをやです。

つまるところ、室町幕府にはコストをかけて貨幣を発行するメリットも、必要性もなかったのです。

日本国内では私鋳銭業者が出回るほど貨幣の需要が高まっているのは、もちろん室町幕府も把握しておりました。日明貿易で幕府は積極的に銭貨を輸入しております。が、国として必要量を計算して発行したわけでもなく、年に決められた回数、仕入れられた分だけ仕入れる銭が、経済に影響を与えたとはとても考えられません。

明銭を発行した明の事情

さて、日明貿易で日本が明から持ち出した銭のうち、明が国家として鋳造された銭を「明銭」といいます。ですが、明という国は、初代皇帝・洪武帝のときに銭貨使用を禁じてしまっています。これは宋、元と歴代王朝が続けていた紙幣主体の経済制度を明が採用したからです。紙幣は銭貨よりも発行にかかるコストが少ないため、中国のような広大な土地を支配する王朝にとっては都合のよいものでした。また、輸送を行う場合も軽くて運びやすいので、国土が広大でもコストがかからないという点も紙幣が大陸で定着した理由です。

とはいえ、全ての銭貨をいきなり紙幣に切り替えると言うと混乱を生みます。中国の銭貨は国内だけでなく周辺国にとっての基軸通貨でもありましたので、廃止を行うと国際経済にも影響を与えてしまうという事情もありました。そこで、銭貨の使用を禁止しながらも皇帝が変わるたびに銭貨を発行していました。

明の初代皇帝である朱元璋こと洪武帝が最初に発行した貨幣が「洪武通宝」です。

画像2

明 は現在の日本と同じように、1 人の皇帝が一つの元号を用いる「一世一元制」を用いていました。なので宋や元と比較しても発行した硬貨の種類は少ないです。

ところが、洪武通宝に関しては、直径の大きさを分けることで1、2、3、5、10文の5種類も発行されています。ですが、日本に輸入されてきた洪武通宝はほとんどが1文銭です。

何度かnoteで解説していますが、日本における渡来銭文化は、識字率の低さと自国で貨幣を発行してこなかったことが重なり、銭名にかかわらず全ての銭を1文として扱うことになっていました。そのような状況下で直径の異なる銭が入ってくると、かえって混乱を生みますので1文銭ばかり輸入したのです。

洪武通宝の次に明が発行した銭貨が「永楽通宝」になります。発行したのは3代皇帝の永楽帝です。

「ん?2代皇帝を飛ばしてない?」

と思った方、正解です。2代皇帝である建文帝は、おじである永楽帝によりクーデターを起こされて、在位わずか4年で殺害されました。なので、貨幣を発行する間が無かったのです。

永楽帝のクーデターのそもそものきっかけは、父・洪武帝(朱元璋)でした。以前も書きましたが洪武帝は、元々農民出身でした。なので、権力の裏づけがありません。明王朝には、彼の出身地である江南地方の有力者が集まっていましたが、もちろん配下の中には同地方の諸侯も含まれています。

血統も、資産も、学力も自らを遥かに上回る部下たちが、王朝が巨大化するにつれさらに勢力を拡大してしまうことに洪武帝は頭を悩ませました。具体的に江南出身の功臣に対して辞職を勧告したり、江南出身者は、出世試験である科挙の受験を禁じるなど施策を行いましたが、あまり効力はありませんでした。

洪武帝の中に江南出身の配下に対する疑心暗鬼が生じたことが、残されている数々の史料や、実際に起こした粛清事件から窺い知ることができます。しかし、洪武帝の治世初期は、まだ元王朝の残党が中国北部に展開していたほか、日本が元締めだと信じられていた倭寇による沿岸部の襲撃も続いていたため、内患を処分して混乱を外部に見せるわけにはいきませんでした。

1374年、光武帝は、日本の内情を把握し倭寇の親玉が日本ではないことを確認。さらには、元の残党を国外に追い出すことに成功しました。

そこで、ついに憂慮の原因となっていた江南出身の部下の排除を始めます。

1375年には、「空印事件」を起こし、地方行政官の大量処分と地方行政府の解体を一挙に行います。空印事件とは、中国で伝統的に行われていた行政処理の簡略手順を逆手にとった洪武帝の策略です。

明では規定に従って、毎年地方財政の収支を財務大臣へ報告することになっていました。この報告書は、地方の役人から役人の監督官である各布政使司に渡り、ここで最初の監査を受けます。監査後、財務大臣に書類は回されここでもう一度監査を受けます。複数の人間の監査を通すことで、正確な収支記録を残せ、皇帝が確認する記録は間違いがなくなるというよくできたシステムでしたが、一個だけ弱点がありました。それが、もし、計算が間違ってしまっていた場合の手順です。

ミスが発覚した場合書類は戻されるわけですが、戻された場合は最初の地方役人の計算からやり直しとなったのです。

これは、時間がかかります。

「各布政使司まで通ったのに財務大臣の監査ではねられました。間違いは各布政使司の計算ミスでした」ということが明らかな場合でも、手続き上は地方役人のところからやり直しです。そして、平時なら計算をし直す余裕もあったでしょうが、もし紛争地帯だったら悠長に再計算などしている場合ではありません。

そこで、公然の秘密として、(現在の大企業などでも行っているところはありますが)、各官や役所の印があらかじめ押してある空欄の帳簿を用意していたのです。これを公印の偽造として、光武帝は取り締まりました。

この空印書類を使用していない役所はありませんでした。ほぼ全ての役人が捕縛され、左遷などの処分を受け、代わりとして、洪武帝の息のかかった役人が送り込まれました。極めて短期間に、強引な手段でもって財政の中央集権化が行われました。

この策略を主導したのは中央統治機関である中書省の宰相(実質上のトップ)胡惟庸でした。ところが、この胡惟庸も1380年に突如逮捕され謀反を企てたとして処刑されてしまったのです。胡惟庸は洪武帝と同郷で、紅巾の乱のころから共にしてきた重臣でしたが、専横の過ぎるきらいがありました。実際、空印事件に際しても独断で厳しい処分を行い「さすがにやりすぎである」と諫めた実の息子を叩き殺したという逸話が残るほどの人物です。事件後は、中書省の権力を一手に集め、皇帝のように振る舞っていました。

洪武帝はこの重臣を濡れ衣を着せ殺害すると、強引に中書省を廃止し皇帝専制の政治体制をつくり上げたのです。

ですが、これで洪武帝は安心しませんでした。江南には第二第三の胡惟庸がゴロゴロしていると考えた光武帝は、江南の有力者はすべて胡惟庸の謀反に協力したとして、次々と逮捕、処刑を行ったのです。この処罰を諫めるものも同様に弾圧しました。

晩年の洪武帝は自らの親族以外は誰も信じられないと考えていたようです。

この洪武帝の大粛清により数万とも言われる人が処罰されたと伝わっています。洪武帝は、信じられない速度で中央集権国家を形作りましたが、同時に有能な官僚の多くを失ってしまいました。1398年に満69歳で亡くなるまで、彼は功臣を殺し続けました。

死後、明の皇帝の座は、孫の朱允炆(建文帝)に譲られることになります。

粛清が仇となり2代目にして明王朝が転覆

さて中国北部の燕は、元との戦いをくぐり抜けた百戦錬磨の猛将で洪武帝の四男・朱棣が王として君臨していました。建文帝は「燕王は血肉を分けた親戚だから、謀反の心配はない」と朱棣に全幅の信頼を置いていましたが、実は洪武帝の処罰から逃れた官僚や軍人などが何万人も朱棣の元に集まり、洪武帝の遺臣への復讐の機会を伺っていました。

1398年、反乱の兆しを密告された朱棣は、燕にいた朝廷関係者と内通者を捕縛し殺害。正式に兵を集め、建文帝に対し反乱を起こします。建文帝は必死に闘いますが、如何せん洪武帝により有能な将軍らはほぼ殺されています。物量で勝るはずの建文帝軍は徐々に追い詰められていき、ついに建文帝は殺されてしまったのです。

殺された建文帝に代わり明の皇帝の座についた朱棣は、年号を永楽に変更します。永楽帝です。

画像3

彼が発行した貨幣が「永楽通宝」です。洪武帝が、元を国外に追い出して以降内政を重視し対外的な活動を禁止していったのに対して、永楽帝は、積極的な外交を展開を行いました。この場合の外交には、侵略も含まれます。

タイミングのよいことに、洪武帝に通商を断られていた足利義満が1395年に将軍職を譲り、再度通商を求めてきていました。この頃になると明の国内でも日本の実情について把握しております。日本が中国を侵略する意図などないことは理解していましたし、戦争も行わず冊封下に入ってくれるなら何も文句はありません。

こうして、日明貿易が開始されたのです。

なので、日本国内で洪武通宝と永楽通宝の出土数を比較すると、圧倒的に永楽通宝の方が多いです。こそこそと密貿易をしていた貨幣と、義満の私貿易とは言え、公式に貿易船に積むことができた貨幣とでは出土数に圧倒的な差が出るのは仕方がありません。

なお、洪武通宝と永楽通宝は日本での渡来銭の出土量のベスト 10 に入ってきま す。が、これらがすべて輸入されたものであると考えるのは少し問題があります。まず、前述の通り明は公式には銭の仕様を禁止しているため、鋳造をしていたとは言え、そこまで大量に銭を鋳ていたとは思えません。これを補足するように、室町時代は私鋳銭をつくることが事業として定着しております。つまり、現在まで伝わっている「永楽通宝」の相当数が、実は日本製であった可能性が高いのです。

状態の悪い銭のことを「鐚銭」と言いますが、日本で模造されたものが鐚銭で、輸入されてきたものが「精銭(状態の良い銭)」であったとは限らないということは頭に入れておいてください。

次回からいよいよ、この話題だけで数百ページの本をつくることのできる「鐚銭」と「撰銭」の文化について解説を始めていきます。はあ、大変だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?