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日本の公鋳貨幣22『足利義満の財政再建』

前回はこちら

お世話になっている貨幣研究家の先生が本を出すというので、自分の勉強も兼ねて編集のお手伝いをしております。会社には内緒ですw。発表できるタイミングが出たらアナウンスしますが、原稿を読んでいるだけでかなり衝撃的な内容になりそうです。

あと、もう一方お世話になっている先生が今月お金の本を出版されるとのことなので、それもそのうちちゃんとアナウンスします。ではでは、第22回の内容に入ってまいります。

貧しく弱体化した室町幕府

南北朝の動乱が始まったことによって、室町幕府は開幕した当初から財政的に追い詰められていました。その上相次ぐ土一揆の鎮圧や、足利家内の主導権争いである『観応の擾乱(足利尊氏と、彼の弟の足利直義のあいだで起こった権力争い)という戦争の勃発で追加の軍事費が嵩み続けました。実は観応の擾乱のあいだ、初代将軍・足利尊氏は南朝に寝返っており、事態はますますややこしくなっております。

足利家は、将軍でありながら幕府を支える力を失いました。幕府を立て直した人物として後世高い評価を得る第3代将軍・足利義満も、幼少時に戦乱に巻き込まれています。

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室町幕府誕生から30年も経っていない正平16/康安元(1361)年のことです。この年、京は南朝方に占拠されてしまいました。定期的に滅亡の危機を迎えるのは室町幕府の特徴です(笑)。幼かった将軍継嗣である義満は近江へ逃れることとなりました。

幸い、すぐに北朝の軍が駆けつけ京は解放されますが、正平22/貞治6(1367)年に将軍位を継いだ義満が、誰よりも室町幕府の強化に腐心した理由の一つではないでしょうか?

義満は、有力守護大名である斯波家と細川家をわざと争わせ、その仲裁を行うことで将軍権力を高めたり、あるいは公家に取り入り社会的な地位を高めることで足利家を他の大名と違う次元に押し上げたりという工作を行います。また、他の有力守護に頼らなければならないほど弱体化していた幕府の軍事力を取り戻すため将軍直轄軍である奉公衆を設立しました。こうした義満の政策については、数多くの書物が出ているのでここでは端折ります。このnoteは、あくまで日本の貨幣史/財政史に特化して語る場と考えております。

すなわち、そもそも財政的に厳しかった義満が、どこから幕府改革を行うための工作費や政治資金を得ていたかということです。

義満が見つけた新たな課税対象

室町幕府の政治体制は、当初鎌倉幕府のものを流用していました。ですが鎌倉幕府というのは室町幕府と異なり、東日本ほぼ全域ともいえる広大な直轄地を源氏の名前で治めておりましたので、実はとても豊かな財源をもっていました。

なので当然、室町幕府は財政まで鎌倉幕府を真似ることはできませんでした。室町幕府の直轄地は「御料所」と呼ばれていましたが、御料所は南朝軍の攻撃を受けたり、騒乱で功を挙げた家臣への褒美として無計画に与えられていましたので、年貢の量が安定しませんでした。

そのため、室町幕府はむしろ段銭棟別銭を主要な収入源と考えていました。段銭とは農地にかける税。棟別銭とは、建物にかける固定資産税です。が、どちらも戦争に田畑や都市が巻き込まれたら安定して収入を得られない税で、戦時中の幕府の主要な税収にするには弱い財源でした。

そこで、義満がたよったのが京の商人でした。義満は、京の商人たちの商売を幕府が保護する代わりに、営業に関して税を取ったり、緊急時に特別税を徴収したりしました。また、港からの津料、関所のからの関銭の通行税も重要な収入源でした。特に京へ繋がる街道の出入り口にあたる京の七口の関所は有名ですね。

が、これらだけでは日本全土を支配できるだけの資金はとても捻出できません。そこで、義満は御料所に依存しない収入の道を探り始めます。目をつけられたのが京の酒屋土倉です。酒屋や土倉というのは、今でいうところの質屋兼消費者金融です。

鎌倉時代末から商業の発展に伴い、金を貸す、借りるという行為が一般化しました。人に金を貸すには、それなりの元手が必要となります。金貸しを営む商人の背後には、宗教的な権威を用いて武家から荘園を守ってきた寺社がついていることが多かったようです。彼らは生活困窮者に高利で金を貸すことでさらに資産を大きくしていました。銭や米を貸す金融業者を鎌倉時代は「貸上」と呼んでおりました。

公家や武家のような太い家に金を貸す場合、貸上は証文ひとつで貸しつけを行いました。なぜなら、金銭の回収ができなくても彼らの持つ土地を差し押さえることができるからです。鎌倉時代には、貸上から大地主となり御内人になった人物もいたりします。

が、貨幣経済が浸透し借金文化が広がるとより貧しい庶民らも貸上から金を借りるようになりました。彼らには金を借りるにあたって担保となるような土地はありません。そこで貸上らは金を貸すにあたり質草を取るようになりました。

預かった質草を保管するには、倉庫が必要となります。南北朝時代のころになると、貸上を営めるのは、大きな宗門寺社がバックに付いているだけでなく、巨大な倉庫を保有している商人のみとなりました。すなわち商品を保管する土倉をもつ運送業者か、あるいは酒の製造のために巨大な酒蔵を保有している酒屋です。

室町時代に入ると、貸上という言葉は廃れ金融業者はほぼすべて「土倉」か「酒屋」と呼ばれるようになりました。(港の倉庫を使って金貸しを行う水運業者が母体の金貸しは、別途「問丸」といいます)

義満は、これら金融業者の営業を保護する代わりに、彼らから恒常的に税を取るようにしたのです。この政策は効果抜群でした。当時の金融業者の利子には上限なんてありませんので、年利が元本の60%から70%なんてことはザラにあります。おまけにこの暴利でも土倉・酒屋から金を借りている顧客は日本中にいました。つまり、当時の金貸しは、武士の年貢などとは比べ物にならない額の金を集めている集団でした。

なので、多少きつめの税をかけても、「暴利を貪る悪辣な金貸しにお上が鉄槌を下している」と庶民から称賛されこそすれ、恨みを買うことはありません。また、金貸し側としても、幕府の承認は営業の免罪符になります。金貸しは、何故か昔から社会に憎まれる存在でしたので、有徳人思想が特に強かったようです。「我々のもうけは皆から搾り取った利子だが、この利子が幕府の手に渡り、世の中のために使われているのだ」という屁理屈が、この徴税によって可能となりました。

こうして土倉・酒屋と室町幕府は、持ちつ持たれつの関係となりました。やがて幕府内には、納銭方と呼ばれる幕府御用の土倉が設置され、土倉・酒屋から徴収した税が収められる事となりました。納銭方は公的機関でしたが、後には、武士よりも圧倒的に優れていた経済感覚をもつ金貸しが、幕府の委託を受けて税収の保管・出納の事務等も行う様になります。

公方御倉と呼ばれる特殊な金貸しの誕生です。

酒屋や土倉から入ってくる税収は莫大な額となり、義満政権を支えることとなりました。

宗教の力を抑えながら彼らの知識を利用する

前段でちらりと触れましたが、室町時代の金貸しの背後には必ず宗教団体がいます。特に、この時代に力を持っていたのが、比叡山の延暦寺と(↓)

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奈良の興福寺(↓)です。

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興福寺は、奈良時代から、延暦寺は平安時代から続く古刹であり、彼らの荘園の広さや影響力から見れば、幕府なんて吹けば飛ぶほどのものでしかありません。

金貸しに頼ることで幕府の再建を目指していた義満でしたが、金貸しを支援するということが、目の上のたんこぶであるこれらの寺社勢力をさらに伸張させることに繋がることに気づいていました。

そこで義満が行ったのが、京都五山の制定です。五山とは、中国の南宋の時代に日本に輸入された、禅宗の寺格を厳密に制定し、特に5つの寺を大切に敬うという考え方です。

この思想を知った鎌倉幕府は、禅宗(特に臨済宗)を保護し、荘園を与えることで、延暦寺などの既存宗門寺に対抗する勢力へ育て上げました。鎌倉のような僻地に建長寺や円覚寺など、今も残る巨大な禅寺が集まっているのは、鎌倉幕府のこの政策方針があったからです。鎌倉に数ある禅寺のなかでも別格とされる5つのお寺は、今も鎌倉五山と呼ばれています。

義満はこれを真似したのです。幸い、祖父の足利高氏が後醍醐天皇を弔うため天竜寺という禅寺を開いていました。幕府として禅宗を保護するという土台は出来上がっていたのです。義満は、京にも鎌倉のような五山制度を敷き、これらの寺を幕府として保護する代わりに、上納金を求めました。

既存宗門寺にとって最も大きな檀家は皇族や公家でした。なので、京の町中に支寺がなくても、彼らは何百年も京で影響力を発揮できました。ですが、足利義満が京五山を制定したことで、京の町の中に既存宗門寺以上に力を持つ宗教が誕生してしまいました。鎌倉時代以降に誕生した新興宗教である禅宗各寺にとっては、本来既存宗門の力が強すぎて布教ができなかった京で布教が許可されたわけですから、喜んで上納金を支払いました。こうして京の町中での旧仏教勢力の力は衰退し、気がつけば、土倉・酒屋たちも京五山寺の影響下に組み込まれるまで削がれていったのです。

さらに、義満はただ禅宗を保護するだけでなく彼らを幕府の力として用いようと考えました。日本の仏教寺院は奈良時代のころから広大な荘園の管理も業務の中に含まれていたため、読み書き算術といった技術も基本の修行の中に含まれています。

ということは、たとえ新興勢力である禅寺であったとしても、そこに所属する坊主たちのほとんどは、武士では手に負えないような額面の計算もらくらくこなすということでした。

禅寺では、漢文や詩歌、仏典解読を行う僧侶を西班衆、そして寺の経済活動を支える僧侶を東班衆として分けて管理するのが日本伝来時からのならわしでした。義満は五山に頼み込み、この東班衆を借りて幕府の出納管理を行わせたのです。

この目論見は成功し、義満以降の室町幕府の出納管理のレベルはそれまで以上に精細なものとなりました。当然それまで武士たちが気づいていなかったような余分な支出も削減されていったのです。

南北朝の合一と日明貿易の開始

明徳3(1392)年、南朝軍の勢いが落ちてきたタイミングを見極め、義満は南朝との和平を切り出します。こうして60年ちかく続いた南北朝の争いは収まりました。この頃になると、義満が準備した潤沢な資金による工作で、ほとんどの守護大名が幕府の武力の前に破れたり、あるいは一族間で争いを仕向けられたりして弱体化しておりました。また、義満自身も朝廷工作により、半貴族化していましたので、もはや彼に歯向かえる武士はいなくなり、室町幕府の権勢は絶頂を迎えることとなりました。

このころ義満が目をつけていたのが日明貿易でした。倭寇たちが行っていた明との貿易は、非公式にも関わらず一回の貿易でひとつの国の年収分くらいの売上を挙げていました。これを幕府として公式に行うことができれば、と義満は考えたのです。

ですが、明は海禁政策のまっただなかであり、国家間の貿易は朝貢貿易しか認めていませんでした。朝貢貿易とは、明の冊封国(家臣)となり、貢物を持ち込む代わりに、中国皇帝から様々な宝を下賜してもらえるという、中華思想が産んだ独特の貿易の形です。

日本は、東アジアのなかではかなり早い段階で中国の冊封国から抜け出していたため、この朝貢貿易の枠組みからは外されていました。「貿易をやりたいから、明に頭を下げてくれ」と天皇に頼むことはできません。そこで義満は、天皇に迷惑がかからないよう将軍位を含めたすべての官位を辞官し出家。明が日本の支配者の呼称だと考えていた「日本国王」を名乗り始めました。こうすることで、朝廷に対しては、彼個人が明に服従したと見せることができましたし、明からすれば、「ついに日本国王が冊封下に入った」とメンツを保たせることができたのです。

こうして義満は貿易権を手にしました。

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↑日明貿易船

なお、この日本国王という呼称に関しては様々な説があり、「明側も義満の詭弁であることは把握していたが、義満に倭寇の取り締まりを行ってほしかったから黙認していた説」や、「義満が天皇家を上回る権力を誇示するためにあえて名乗った説」などがあります。

兎にも角にも、義満は倭寇を取り締まる見返りとして明と朝貢貿易を行う権利を手にしました。義満が国家の使節団として用意した貿易船団は、一回の航海で、義満が苦心して整備してきたその他の税収の数年分もの売上を叩き出すことになります。以後、幕府の財政は安定する……はずでした。ここから先の話は次回に回します。

日明貿易で日本から輸出されたのは、硫黄刀剣、そしてこの頃から生産が再開されていた。対して日本が輸入したのが、永楽通宝を筆頭とする「明銭」でした。永楽通宝に関する紹介も次回に回すとして、注目するべきは銅です。

あまり知られていませんが、この頃から明治時代初期まで、「銅」は日本が誇る輸出品となっています。というのも日本の銅の純度が極めてく加工しやすいことに加え、日本の銅にはその他の様々な鉱物が付随していたからです。実は日本の銅には、銀が微量に含まれています。しかし当時の日本の技術では、それを分離することができませんでした。しかし中国ではこの分離が可能でした。そのため「銅にしては高いが、銀よりは安い鉱物」として、中国人に喜ばれたのです。

義満は、土地を持たない室町幕府を一代にして潤沢な資金をもつ幕府へと作りかえました。この資金を元手に、鹿苑寺金閣を始め義満の時代に京で花開いた絢爛豪華な文化を北山文化と呼びます。


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