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大河ドラマから見る日本貨幣史12『甲陽軍鑑と甲斐』

『麒麟がくる』第21話、最新学説に則った行軍時間や天候の変遷、信長の戦略まで完璧に描写し、令和2年でもっとも新しい説を採用した桶狭間だったのではないでしょうか!!見ていてものすごく興奮しました!

ドラマ内では松平元康(徳川家康)が、桶狭間の合戦後に岡崎城に入ったとしか語られませんでしたが、あの後元康は、1年近く今川軍として信長と戦を繰り広げております。ですが、今川氏真が東の北条と北の武田防衛ばかりに注力し、三河を手助けできなくなったため今川と決別。織田と同盟を結ぶことになるわけです。

今回の見せ場は何といっても、義元討ち死にの場面でしょう。一部の時代劇好きのあいだでは有名ば場面ですが、ああもスタイリッシュに描かれるとは思いませんでした。服部小平太が義元の膝を槍でつき、毛利新介良勝が動けなくなった義元にとどめを刺すという一連の流れは、アクション映画のようでかっこよかったですね。

早く、続きが見たいです!

さて、そのようなかっこいい戦の裏で、さらりと描かれていた『今川軍が乱取り(戦地での略奪)を行っており、混乱をしている』というエピソード。実はこの乱取りの混乱もあって信長の攻撃が成功したというのは、最近出てきた新説です。その根拠となっているのがとある書物群。

本来、活発に研究が進むような内容でもなかったその書物は、書物が発行された特別な場所のおかげで多数の写本が残り、現代の我々も簡単に目ができる形で残されることとなりました。

その書物を『甲陽軍鑑』といいます。

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※画像は国立国会図書館より。

『甲陽軍鑑』とは、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田氏の、戦略・戦術を記した軍学書です。信長・家康によって滅ぼされた武田氏の領国経営のHow toが詰まった教科書でして、江戸幕府を築いた徳川家康にとっては敵の残した教えが詰まった書物でした。

ところが、家康という人間は非常に柔軟な考え方を持っていた人物でした。彼は武田家の遺臣たちも登用し、有能なものにはポストも用意しました。初代勘定奉行であり、老中にもなった大久保長安などが武田遺臣として有名ですね。こうした措置は、家康が武田信玄を尊敬していたからと言われていますが定かではありません。ただ、武田家と甲斐が江戸幕府に特別扱いされたのは確かです。

家康が重用するのだから、武田家遺臣たちが学んできた武田流の軍学には何かあると、甲州流軍学を学ぶ武士が江戸時代に激増しました。甲陽軍鑑は、出世を目指す武士の必読書となったのです。これだけ愛読される本を、出版好景気に沸いた江戸時代の本屋が無視するわけがありません。本書は、出版社ごとに異なる写しで多くの版が刷られ、販売されることになりました。

軍学の教科書であった武田家の歴史は、こうして一般庶民にも知られるようになりました。

現在、多くの人は、北条氏政と言われてもどのような武将だったか具体的な像は浮かばないでしょう。が、武田信玄に関しては「手には軍配」、「獅子頭の兜」をかぶり、「がっぷりとした体格」……と、ビジュアルが浮かぶかと思います。これは、本書が世の中に出回りまくったことにより、あらゆる信玄物創作物の元ネタとなったからなのです。

そのような本ですので、面白おかしくなるように、脚色された個所が多々あります。写していく際の漏れもあります。元々が口述筆記だったため、事件が起きた日付など年号にも語り手の記憶違いによる誤りが散見されます。なのでかつては史料に値しないと見られていたようです。

ですが研究者たちの努力により、少なくとも原本とされるものに関しは、同時代を生きた人物による生の証言であり、きちんと史料批判を行えば、一級品の史料足りえるという結論に至っております。

甲陽軍鑑にはドラマの通り、乱取りを行っていた今川軍の指揮が乱れており、その機に信長が進軍したことが記されています。これは、信長研究のための一級史料とされる『信長公記』にはない記述です。信長を顕彰するために書かれた信長公記に、かっこ悪い理由を書きたくなかったのでは、と言われています。

甲斐がどれだけ江戸幕府によって特別扱いされていたことを示す証拠があります。それが、甲斐の貨幣です。徳川家康は、戦国時代に武田信玄が整備した貨幣制度『甲州金』にいたく感動しました。その貨幣制度とは、金を4進数の計数貨幣として用いるものです。

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画像は信玄の時代の甲州一分金です。

甲州金は1両=4分=16朱=64糸目という計数単位で成立していました。

従来の金銀を用いる取引では、取引の度に含有金属量と重量を計って価値を確定させていました。これでは、取引に時間がかかります。ですが、政府が一括して金の品位と重量を揃えその額面も確定させておけば、政府が信用されている限り秤量の必要はなくなり取引速度が上がります。武田家滅亡後、家康は甲斐の制度をまんまパクッて、1両=4分=16朱で金貨の貨幣制度を作りあげたのです。「糸目」の計数単位は銭や銀貨で充当しました。

この貨幣制度の肝は、全国一律で同じ金貨を用いるということでした。全国の貨幣を統一すれば、地域によって取引を拒否されるということもなくなり巨大な経済圏が誕生します。ですが、甲斐のみ、特別に幕府の貨幣を使わなくてもよいとされていたのです。

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画像は江戸時代につくられた甲州一分金です。戦国時代のものよりデザイン性が増していますが、幕府が公式に発行していた1分金とは

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形状も金の量も大きく異なります。

すでに完成している貨幣制度を改める必要はないと判断したのか、家康が信玄に敬意を表したからなのか。ともかく、甲州金は元禄時代に一時鋳造を停止されますが、その後も幕末まで鋳造が続けられ、江戸時代を通じて甲斐で流通しました。正式に廃止されるのはなんと明治4(1871)年のことです。

戦国時代の敗者ではあるのですが、甲陽軍鑑や貨幣制度など、甲斐という国が日本に与えた影響は非常に大きいのです。

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