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日本の公鋳貨幣25『階層化する撰銭』

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銭1枚=1文の原則に生じたヒビ

日明貿易が始まり、正式に国交が結ばれた日明間でしたが、それでも銭の輸入量は期待するほど増えませんでした。宋銭の時と異なり、この時代は中国大陸でも中古銭の価格が上昇しておりました。中国人商人からすれば、わざわざ国外に売りに行かなくても中国で高く売れるわけですから、国内で売った方が輸送コストも抑えられますし地元の信頼も得られて一石二鳥なのです。

銭が輸入されてこないのですから、日本ではますます私鋳銭の製造が盛んとなりました。宋銭や皇朝十二銭などのボロボロの中古銭も新品の明銭や私鋳銭と混ぜて使うしかなくなりました。

ところで過去、日本では銭の名称にかかわらず1枚を1文として計数していたと書いてきたかと思います。銭の発祥国である中国では1枚で5文相当の大型銭(額面の大きさを、中国では直径の大きさで表した)も発行しています。ですが、日本人は額面を揃えるためにわざわざこれをやすりがけし、直径を縮めて使用していました。

どうしてここまで1枚=1文を徹底したのかというと、銭が回収を前提としない貨幣だからです。

貨幣を国家が発行するのにはいくつか理由がありますが、大きくは発行差益(シニョリッジ)を得ることと、納税手段として回収を行うことの2つです。発行差益とは、1枚10円で印刷できる紙切れに、1万円の額面を持たせることによって、9,990円余分に稼ぐことです。実はこれ単体では政府サイドにとっては大した収入ではありません。大事なのは、納税による回収です。

1万円として発行された貨幣は、1万円を受け取った人が1万円分の買い物を行ったり、あるいは銀行へ預けて投資に回すことにより何十倍もの経済効果を生み出した後、再び税金として政府の手元へ戻ってきます。回収された1万円は、再び1万円分の政府支出に充てることができるわけですから、回収さえ行えれば永遠に繰り返される錬金術が完成します(実際には紙幣は痛みますので3年程度で新たに印刷し直す必要があります)。

で、ここで考えてみて欲しいのです。例えば、年貢というのは一年間の農業という仕事に対してかかるお金ですから所得税に当たります。あなたが個人事業主だとして、所得税を1円玉で支払いますか?

おそらく99%の人が、紙幣で支払いを行うはずです。わざわざ小銭で税金を支払うなんてめんどくさくてやっていられません。なんなら、現在の1円玉に至っては製造に2円かかっており、作れば作るだけ赤字を生みます。小額貨幣というのは、政府にとっておいしくない事業なのです。なのになぜ日本政府は小銭を発行するのか。それは、あらゆる場面で円取引が円滑に行えることを示すことで、信用が普遍であることを見せつけるためにほかなりません。なので、小銭というのはそもそも回収を前提としていないのです。側溝に1円玉が落ちたからといって、回収しようと必死にどぶさらいをする人は稀でしょう。

銭は小額貨幣です。本来ならサービスで発行しなければならないのですが、当時の世界人口の4分の1近くを占める中国王朝の国力では、伊達や酔狂だけでサービスを行う余力はありませんでした。なので前王朝の銭もそのまま使用できることとしたのです。結果、あらゆる銭は1枚で1文という不文律が、東アジアで出来上がっていきました。

ですが、ボロボロの古代銭とキラキラの明銭が同じ価格という事実に違和感を抱く人が当然出てきました。そこで、1枚=1文で扱う銭と、そうでない銭を分ける習慣が徐々に見られるようになりました。このような行為を「撰銭」といいます。

「撰銭」は東アジア全域で行われていた

日本での撰銭は、皇朝十二銭が流通していた8世紀に朝廷より禁止令が出されていることから、古代から行われています。ですが、この時の撰銭は室町時代のものとは思想的に少し異なります。皇朝十二銭は、特に後期のものになればなるほど銭の銅含有量が下がっていました。そのため金属の地金価値を重視していた(最悪、国家の信用が下がったとしても地金として売り抜けられる)古代においては、前期に鋳造した皇朝十二銭ばかりが好まれており選別されていました。

その後も割れた銭や磨耗してしまった銭を忌避し、排除したりする撰銭は行われていたようです。まあ、さすがに真っ二つの欠け銭を受け取りたくないという心情はわかります。が、15世紀後半、日本では室町時代の中期に入ると、銭の状態だけでなく銭文も選り好みの対象となりました。

この時、価値が低いものとして嫌われた銭は、なぜか明銭の銭文をもつものでした。

室町時代の撰銭は大きく2種類に分けることが可能です。ひとつは支配者の命令で強制された撰銭。もうひとつは支配者とは関係なく民間で行われていた撰銭です。そして銭文の選り好みは、民間から生じていった文化でした。

銭銘に対する撰銭は地域ごとの差も生じていたことが知られています。もう少し後の話ですが、永楽通宝は関西より西、特に九州で価値がなく、逆に洪武通宝は東日本で嫌われていました。この地域差に関しては別の機会に紹介するとして、ここではなぜ、銭文による撰銭が始まったかを解説していきたいと思います。

明銭が嫌われて価値が下がったのは、“使えなかった”からです。

前回も述べましたが明は公式には銭の利用を禁止していました。そして上でも解説した通り、高額決済ばかりを行う大商人たちは、ほとんどが銭ではなく紙幣や銀を用いていました。銭は、小額なのにイリーガルな決済手段でした。

銭の使用を禁止していたということは、明は政府として銭を発行する気がないということでした。一般の庶民は日常生活の売買が行えず、釣り銭も不足していました。さらに、北方ではいまだモンゴル勢との睨み合いが続いていました。そこで明では万里の長城から北京にかけて大量の兵士を配備していました。これらの兵士は基本的には貧しい庶民ですので、彼らへの支払い手段は銭が求められました。

中国北部で銭が枯渇してきました。ところが、日本の輸出用の銭を長年にわたり備蓄していた中国南部の港湾地帯(現在の福建省のあたり)には、まだ銭が残っていました。何が起こったかというと、中国南部から北部への銭の輸出が始まったのです。日明貿易で明へ渡った日本人商人もこの状況を「北は銅銭が高く、南は安い」とメモしています。

明の南部、福建の商人らは、さらに銭の輸送で儲けようと北部向けの私鋳銭も製造し始めます。もともと福建では15世紀の初頭から中期にかけては、明政府に隠れて庶民向け兼日本輸出用の明銭を私鋳しており、銭鋳造のノウハウは蓄積されていました。この経験を、北部へ輸出するための私鋳銭を製造する事業へと切り替え始めたのです。本来貨幣の偽造は犯罪ですが、国内で貨幣の価格差が生じることは明政府にとっても頭の痛い問題でしたので、実際的な必要性を把握しこの私鋳は見て見ぬふりをしました。

15世紀後半になると、見逃してくれた政府に商人たちも遠慮したのか、「明銭」ではなく「宋銭」を製造するようにました。この、15世紀に新たに作られた宋銭を区別するため、この頃から中国の史料に「新銭」という言葉が登場し始めます。ここでいう「新銭」とは、「明銭」のことではなく「新しい素材で作られた、古い時代の銭文をもつ私鋳銭」です。

つまり中国に「明銭」と明銭以前の「旧銭」、そして新たに鋳造された「新銭」の3種類の区分け(階層)が生じたわけです。階層ができたということは、価格に優劣が付けられたということでもあります。考えればわかると思いますが、この価格体系は「旧銭(宋銭)」>「明銭」>「新銭(明銭)」でした。

さて、日本と貿易を行う商人の多くは福建に本拠地を構えるこうした私鋳業者のスポンサーです。当然、明銭のほとんどは自分たちがつくらせた偽金であり、場合によっては明政府に受け取ってもらえないイリーガルなものであることを知っていました。なので、明の貿易商はリスクを避けるために明銭の受け取りを拒否していました。

当然、日本人貿易商も明銭が中国人の間で歓迎されていないことを学習しました。自然な流れとして、15世紀後半の日本でも中国と同じように「宋銭」=「皇朝十二銭」>「明銭」>「新銭」という価格の階層が誕生しました。

となると、日本の私鋳銭業者も、すこしでも価値の高い銭を作ろうと考え、明銭より優先して宋銭の模造を行います。日本国内で出土する宋銭の数だけが桁違いに多い理由です。古銭屋で安く投げ売りされている宋銭には、国産のものが混じっているもの、ということを知っておいてください。どうしても、純正の宋銭が欲しいという形は、この時代の日本産の模造銭は以下の3つの大きな特徴がありますので覚えておいてください(②についてはお店では調べられませんが、①③に気付いたらお店の方に声をかけるとその場でぱっと鑑定してくれたりしますよ)。

①小さい……粘土などにオリジナルの銭を押し付けて鋳型をつくっていたので、コピーが繰り返されるたびにオリジナルよりも縮んでいきます。

②純銅に近い…以前も解説したが、この時代の日本ではまだ錫を精製する技術がありませんでしたので、銅合金をつくることができませんでした。

③文字が不鮮明…私鋳銭業者が文字をあまり理解していないということもありますが、それ以上に②による要素が大きいです。銅は錫と混ぜることで強度を増しシャープな加工が可能となります。純銅でつくる私鋳造銭では、シャープな文字を鋳出すことができませんでした。

銭の私鋳を通じて起こった日中サプライチェーン

日明貿易において大きな輸出品となっていたのが日本の銅です。日本は銅を輸出する代わりに宋銭や、明銭を輸入していました。

ここで、一つ面白い事実があります。

実は日本に輸入されてきた銭のなかに新銭はほとんど含まれていないのです。このことについて、東京大学東洋文化研究所教授の黒田明伸氏は以下のような推察をしています。従来、日本の銅が明で歓迎されたのは、銀を含有していたからだとされてきました。ですが、明の輸入目的はそれだけではなかったのではないか?というのです。

中国南部で私鋳永楽通宝が現れた1460年ごろは、日本の貿易商が銅を売り渡し始めた時期と一致します。そしてこの頃の日中双方が記録に残している銅価格が一致していることから、中国は銀を得るために加え「新銭」を鋳造するための銅素材を日本から購入し、代金として「明銭」や「宋銭」を支払っていたのではというのです。明の時代は中国国内は銅不足に陥っていますので、日本での銅の増産と輸出は渡りに船だったはずだというのです。

ともかく、これまで1枚=1文で通用していた銭に、明確な種類分けが生まれたことによって、東アジア全域でこの原則が崩れていきました。これまでは文字なんか気にしないで売買していたのに、1枚1枚貨幣を鑑定する必要が生じてしまったのです。

これにより取引速度の低下はもちろん、ただでさえ不足していた銭不足がより加速してきました。場合によっては銭の受け取り拒否が起こるからです。15世紀後半から、撰銭の習慣をいかにして排除するかが、室町時代の支配者階級の大きな課題となりました。


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