大河ドラマから見る日本貨幣史9 『領地替え(転封)はなぜ難しいのか』
貨幣史とはまた異なりますが
第16回『大きな国』にて光秀は、斎藤義龍からさらに石高を増やす領地替えを提案されます。石高を増やす、すなわち年収のアップですが、十兵衛は先祖伝来の土地を手放すという事実と、義龍への不信からこの提案を断りました。
ドラマ的にはこの後の光秀の決意につながっていく重要なシーンでしたが、あなた自身の立場を光秀として考えた時「ん?」と思いませんか?上司から「転勤して。年収アップするから」と言われているわけですよ。しかも、転勤の理由は、「国の出納管理を明確にするため」という国家運営としては大変正しい前提があるのにです。
まあ、ドラマの中で斎藤義龍は、自らの出自に向き合わず人を信じない男として描かれているので、光秀が彼の言動を信じられないという気持ちはわからなくもありませんが、それ以上に領地替えというのは経済的な負担が大きかったため、例え加増であったとしても嫌われていたことはご存知でしょうか。
「一所懸命」という言葉に象徴されるように、武士は自らの先祖伝来の土地というものを大切にしておりました。これをただの武士の哲学と言い切ることもできますが、それよりは日本にいる多くの武士が、劇中では「国衆」と呼称されている「国人領主」であったことが関係しております。国人領主とは、中央政権からその地を治めるように指示された「守護」や「貴族」に代わり、その地を支配する実務を行っていた人です。
中央省庁から派遣された守護(幕府)や荘園領主(朝廷)は、京での政争に明け暮れていますので、自らの領国のことを具に知りません。そこで彼らは自らの部下として、領内の有力者である「国人領主」を雇い入れて彼らに各々の土地の管理を任せました。国人領主の出自は様々です。王朝時代の受領などがそのまま居ついて既得権益化した者、鎌倉幕府が派遣した地頭がそのまま居ついた者、その逆で鎌倉幕府に反発していた「悪党」がそのまま権力をもったもの、有力農民が武装し、武士としてなりあがったものなどなど。
劇中では土岐氏が美濃国の守護、斎藤道三をはじめとするその他の登場人物達が国衆という扱いになります。なお、道三は土岐氏の有力被官として、守護代という現地の政治を土岐氏に代わり司る国人領主のトップの役職になります。なので、美濃の国衆の代表として多くの国衆を従えているわけです。土岐氏を追放したことにより、道山が守護代から守護へとなりあがる様は、劇中で描かれた通りです。
奈良・平安時代は一方的に農民を締め付けるだけで地方支配は完成していましたが、鎌倉時代をすぎると経済が発達し、被支配対象でしかなかった農民にも生活の余裕が生まれてきました。これは教科書などでも習う農業改革と貨幣経済の浸透が大きな原因です。
二毛作、三毛作の普及により生産性が高まり、大量の食料品が地方で作られました。従来ですと米そのものが貨幣として扱えたため、領主は年貢という形で米を収奪し保管しておくだけで財産形成ができました。しかし、鎌倉時代以降は渡来銭が経済の主役となったため農産物を換金しなければならなくなりました。集める米の量が多い領主が市へいって米を売るのは運送費もかかり大変です。また、この時代は大量の米を一括して買い取るほどの大店はかなり限られています。必然的に、領主は農民たちに市で生産物を売らせ、税は銭で徴収するようになりました。
すると、余剰生産物が生まれれば生まれるほど、農民は租税で奪われない銭を得て暮らしは楽になります。折しも鎌倉幕府の討幕運動以降、世の中の乱れは非常に大きくなったため、武装していた農民も多く生まれました。古代のようにただ農民を力で抑えるだけでは、国人領主もいつ寝首をかかれるかわからないという時代が訪れました。効率よく自らの領地を治めつつ、農民とうまく共存関係を保つ、これが室町時代の国人領主たちに求められたことなのです。
自らの農民支配に権威をもたせるには、中央から派遣された守護に仕える国衆という立場は便利ですが、ご存知の通り室町幕府の地方支配体制というのはとても脆弱なもので、それだけでは農民たちは納得しません。もし、反発され納税をボイコットなどされると、それだけで武士は生活が成り立たなくなります。農民が暮らしやすいよう領内の治安維持やインフラ工事を自腹を切って行い、農作物の植えつけや収穫も手伝う「有徳人的な領主の在り方」が求められました。よい領主であろうとすればするほど農村と領主の仲はよくなっていき、国人領主にとって農民も家族のような存在へとなりました。
さて、戦国大名の家臣の多くは国衆です。国衆は自ら独自の土地をもつ領主ですので、大名を大企業とすると国衆は下請け企業のような関係です。両者に明確な上下関係ではありませんので、国人領主の領地の財務状況は、他社の会計に首を突っ込むようなことでした。ですが、強固な国をつくるために自国の生産力を知ろうと思うのは、有能な大名であればあるほど考えることです。義龍は領国内の生産力を把握するには、農村と国衆の結びつきを切り自らすべてを管理する必要があると考え、領地替えを提案したのです。
先祖伝来の土地を離されるということは、国衆側からするとまた一から人間関係を築きなおせということです。また、数十年、数百年かけて築いたインフラを整備しなおすことは、狭い領地しかもたない国衆の経済的に無理でした。歴史上、この領地替えで上手くいった例は、いずれも大名クラスの経済力をもつ人物ばかりです。大名の領地替えとして有名なのは三河から江戸への転封を命じられた徳川家康です。彼が天正17年(1589年)に、江戸へ移ってすぐに行った利根川の東遷事業ですが、ひとまずの完成が見えてきたのは、承応3年(1654年)だったりします。このことから見ても、インフラを工事しなおすということがいかに大きな経済負担になるかよくわかると思います。
ドラマ内の明智家の様子では新領地へ赴いての再開発ができるほど裕福には見えません。有力な家臣である光秀がこの転封に応じれば、他の国衆も動かなければならないという圧力になるため、義龍が明智家を優遇しようとしていた気持ちは理解ができなくもありませんが、やはり彼の提案は現実的ではなかったように思います。明智家が国衆ではなく斎藤家の直参(直属の家臣。上の会社で例えるなら大企業の社員ということ)なら話は別なのですが、明智家もまた劇中の表現では国衆ですしね。
全国の細かな領主の財布に手を突っ込んだ成功事例として私たちが学校で習うのが秀吉の太閤検地です。逆を言うなら、天下人にならないことには手を突っ込めないほど、領地替えというのは難しく反発が大きかったということです。
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