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日本の公鋳貨幣21『明の海禁政策』

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中国からモンゴル勢力が追い出される

南北朝の動乱の最中、日本では納税手段として貨幣を用いることが定着しました。このことは日本人に強烈な貨幣需要を生みましたが、同時代の日本は、それまでのように海外から銭を輸入できなくなっていました。

全ては、中国大陸で「元」が滅亡したことから始まります。

そもそも、モンゴル帝国から分裂した「元」は、土地や出自に囚われない人材登用を行っていました。「国境」という概念が薄い遊牧民族の国ですから、シルクロードの整備や航路の開拓にも積極的でしたし、モンゴル帝国がアラブ地域を支配領域に組み込んだため貿易も積極的に行いました。こうしたあらゆる民族に開かれた環境が世界的な貿易振興へつながり、極東の島国に過ぎない日本にも大量の銭が持ち込まれることとなっていたのです。

この雰囲気は、元寇が起きて日本と元の関係が劇的に悪化したあとも、民間の間で共有されていました。

が、「元」があらゆる民族を取り立てたことが国家の寿命を縮めることにもなりました。侵略王朝である元の人口構成は、当然、モンゴル民族よりも漢民族の方が多くを占めています。そのため、王宮でも多くの漢民族が働くこととなりました。14世紀に入ると、こうした漢民族の文官が帝位継承権をもつ各王子を旗印に、権力闘争を行うようになりました。

この争いはやがて死者を出すまで拡大していきます。もちろん元王朝の地方統治力も低下しました。元々異民族の建てた王朝だから、人心を把握するには善政を行うしかないのに、行政すら行えないのでは民衆に不満が溜まります。

悪いことは重なるもので、この時期、中国大陸では疫病が流行っておりました。感染症が広まると人々の心は荒みました。荒んだ人々が心のよりどころとしたのが、南宋の末期に登場し、呪術的な要素が強すぎたため大陸の仏教界から異端視された白蓮教でした。疫病が流行るとしょうもない嘘に飛びつきたくなるのは、現在と一緒ですね。

混乱の中信者を増やし勢力を拡大した白蓮教は、世の中をよくするために革命を起こすことを掲げ、韓山童を首領にして元に対して反乱を起こしました。反乱軍は目印として紅い布を付けた事から、三国時代の『黄巾の乱』に準え『紅巾の乱』と呼ばれます。

ここでも元と漢民族の人口の差が仇となります。たかだか宗教組織の暴動でしたが、純粋なモンゴル民族と漢民族では数が違いすぎます。元は、この紅巾の乱軍に敗れ続けました。

そんな白蓮教徒のなかに、朱元璋という貧しい農民がいました。紅巾の乱の中で軍略家として頭角を現すと、大陸南部、江南地区を元から解放します。朱元璋は、やがて自ら江南の皇帝を名乗り「明」という国をつくります。白蓮教とも袂を分かち、独立勢力となると、ついに洪武元(1368)年、元の首都・大都を占拠し中国全土の支配に成功したのです。

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↑朱元璋

日本では南北朝の激戦真っ盛りの中、足利義満が、わずか11歳で第三大将軍に就任することになった年でした。

日本人を苦しめた明の貿易政策

なぜ、これほどまでに中国史を解説したか。それは明が、日本の貨幣不足を決定づけてしまったからです。

洪武帝は赤貧の農民出身でしたので、明の政策の根本には、農民を救いたいという願いがありました。そんな明には、成立当初からひとつの大きな課題を抱えていました。それが、倭寇と呼ばれる海賊集団です。洪武帝は農民の暮らしを豊かにするために、農民への課税を緩和し、その分、「元」末期に暴利を貪っている“ように見えた”貿易商人への苛烈な課税を行いました。

その結果、生活が苦しくなった貿易商の一部が日本人貿易商と手を結び、頻繁に港湾の街を襲撃するようになりました。おまけにこうした武装商人たちを、元の遺臣や白蓮教内で洪武帝と勢力争いをしていた人物が囲い込み、洪武帝の支持層である農民・漁民を襲わせ始めたのです。

貿易は国を富ませますが、港に入ってくる船が貿易船なのか倭寇なのかを見分けるのは至難の技でした。また、農民保護という観点から見ると、貿易が盛んになればなるほど締め付けたはずの商人の下に富が集まり力を持つようになります。商人のもとに富が集まる、すなわち貨幣が集まってしまうと、農民と商人の間に経済格差が生まれてしまいます。

1370年、ついに明は、すべての海を使った民間貿易を禁止することを決断しました。この政策を海禁令といいます。

日本国内では銭不足が続いていたため、なんとしても中国大陸から中古の銭を輸入する必要がありました。ところがそこに海禁令です。日本人貿易商は、ことあるごとに理由をつけては中国に船を派遣して銭を買い付けようとしましたが、国家による締め付けでしたので、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのような何億枚もの銭輸入はできませんでした。

銭不足が国内に産んだ新たな産業

倭寇を用いて銭を非合法に輸入するという手段も取られていましたが、こそこそと行うような密貿易で国内全体の銭不足を解消することなどとても無理です。

そこで、このころから国内に全く新しい産業が誕生しました。

「模造銭(私鋳銭)業者」です。

14世紀中期を過ぎたあたりから、日本で出土する銭にかなりの量の模造銭が混ざり始めます。模造銭を製造していたのは、鋳物師や鏡職人といった、金属加工職人でした。この当時の職人は文字を理解していないため、モデルとなった中国銭とは似ても似つかない文字が書かれていたり、あるいは文字が左右反転になっていることに気づいていななかったりと、散々なできのものが多いですが、いずれも銅の含有量が中国銭よりもはるかに多いという特徴があります。

平安時代中期ごろから、国内銅の生産量は激減していました。しかし、大陸から日本に逃れてきた南宋人や元の貿易商が、大陸で用いられていた最新の精錬法を伝ました。この技術を用いれば、平安時代に掘り尽くしたと考えられていた銅山からもまだまだ銅が採掘できることが判明したのです。錫の採掘はまだ行われておりませんので、必然的に国産の模造銭は純銅に近い成分となりました。

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↑ヤマトコレクションギャラリー(https://www.yamatobunko.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000017170&search=%C5%E7%C1%AC&sort=)より流用。模造銭 文字判読不能。「寳」の字を真似したことが伝わる。

これらは偽金です。偽金ですが、現在の感覚の偽金とは異なります。そもそも室町幕府も北朝も南朝も銭を発行していないため、誕生した模造銭は、日本の政府から見ると偽金ではありません。つまり、銭として人々のあいだに浸透したのです。

模造銭は、「代銭納の定着や、経済活動の活性化」と「明による海禁の実施」が重なったことにより国内に生まれたによる貨幣需要を補うもっとも有用な手段になりました。

以後、日本国内の貨幣は輸入銭よりも模造銭に頼っていくこととなっていきます。


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