手紙
手紙を書いてみよう。
ふと思い立って、フランチェスコは引き出しからびんせんを取り出しました。とびきり上等な、淡い桜色のびんせんです。
それから机に飛び乗って万年筆を持つと、ちょっと考えて、書き始めました。
葉ちゃん、フランチェスコです。
ぼくはちゃんと、元気です。
きょうは、葉ちゃんにお手紙を書こうと思います。
大きな水晶玉、赤レンガの大きな工場、夜になると浮かぶ無数のキャンドル。
ここには話して聞かせたい、きれいなものが色々あるけれど、とりあえず、お家の下の湖と大樹のことを書きます。
ぼくのお家がぽっかり浮かぶ、まっさらに澄んだ湖。
その奥底に、四季の大樹と呼ばれる大きな樹が見えます。
朝には春、昼には夏、夕方には秋、夜には冬へと姿を変える、不思議な樹です。
ちなみに、今はお昼で、春から夏に姿を変えたところ。
明るい緑色の若葉が日の光を反射してキラキラと輝いていて、まるで宝石のようです。
なんだか、まだぼくが生後5ヶ月くらいだった頃のことを思い出します 。
あの頃、海辺の広場で育ったぼくは、ぐらぐら燃えさかる太陽の下をいつも一人でさまよっていました。
ふらふらになって海辺に転がっていたのを救けてくれたのが、葉ちゃんだったんです。
初めは、どうしても信じられませんでした。
「人間が助けてくれるなんて!」
ぼくは、母さんから
「人間には決して付いていかないように」
と教えられていて、だからずっと低い声でうなり続けてたんです。
そんなぼくを葉ちゃんは優しく抱き上げて病院へ連れて行ってくれました。
あの日、葉ちゃんが見つけたのは、みすぼらしいちっぽけな仔猫でした。一生懸命なだめながら、お家に連れて帰ってくれた葉ちゃん。
砂や埃にまみれた体をきれいに拭いて、美味しいご飯を食べさせてくれた葉ちゃん。
ぼくがすぐに元気になれたのは、葉ちゃんの暖かさに心からほっとしたからだと思います。
ぼくは、その夜初めて、ぐっすりと眠ることができました。
そろそろ夕方。
この時間、茜色に染まるのは空だけじゃありません。
若葉は紅く染め変えられてすっかり華やかになりました。
湖はその色を映して、きっと葉ちゃんが想像もできないくらいに、美しく紅く輝いています。
秋。
そう、そういえば、シャム猫の、たあおばあちゃんは元気にしていますか?
秋の夜、遠くまで探検しすぎて、迷子になってしまったぼくを、だまっておうちに連れ帰ってくれた、あのたあおばあちゃんです。
隣の煉瓦造りのお家に、住んでいたおばあちゃんは、茶色い鼻に大きなお腹、おまけにしっぽはふっさふさ。
実を言うとつい最近まで、おばあちゃんは猫じゃなくて、たぬきなんだろうと思っていました。
そんなぼくにも怒ったりせず、おばあちゃんはいつも、そっと見守ってくれていました。
おばあちゃんが好きだった、公園の金木犀の香り。
川原のじゃりみち…。
鮮明に思い浮かびます。
なんだか寂しくなってしまう不思議な季節に、葉ちゃんとたあおばあちゃんは、いつも側にいてくれました。
おばあちゃんの落ち葉のソファーを台無しにしたり、葉ちゃんのお洋服や、カーテンを引っ掻いてぼろぼろにしたり。
いたずらばかりして困らせたのに、葉ちゃんもおばあちゃんも、ぼくにとても優しくしてくれて、落ち着かないぼくの、心細さに気付いてくれて、本当に嬉しかった。
あのときは、ごめんなさい。ありがとう。
外はだんだん暗くなって、
あ、一番星……。
1日って本当に早い気がします。
そんなに焦らなくても、良いと思うんだけど。
湖の中には、星の代わりに白い雪が、小さく瞬いています。
大樹の枝に柔らかく積もって、まるで大樹が光っているようです。
湖一面の冬景色を見ても、ぼくは寒そうだとは思いません。
冬の寒さなんて知らないから。
考えたことも、なかったから。
冬、冷たい雪の上をしゃくしゃく歩くあの心地良さなら、今でもときどき夢に見ます。
けれど、本当に寒い吹雪の日には、葉ちゃんと暖かいお家の中で過ごしたものだから、虫や木々なんかが冬眠してしまうのを、ぼくは不思議に思っていました。
楽しいのに、もったいないなって。
でも、本当の冬は、もっと厳しく、冷たい季節。
もし、あの夏の日に葉ちゃんと出会えていなかったら、ぼくはひとりぼっちのまま、凍えていたはずだったんですね。
冬の夜はカーテンを閉めて、暖炉の前で優しく子守唄を歌ってくれた葉ちゃん。
ぼくが、吹雪の叫び声に怯えたことは、1度もありませんでした。
葉ちゃんのおかげで、毎晩楽しい夢ばかりみることができたんです。
今でも、怖い夢を見ることはありません。
葉ちゃんが守ってくれたことに気付かないまま、ぼくは冬を越しました。
ぼくの知らないうちに、暖炉にくべる薪も、もこもこ毛糸の靴下も、ふわふわ柔らかい毛布も、全部用意してくれていた葉ちゃん。
ぼくは多分その冬を、世界で1番暖かく幸せに過ごしました。
今日は特別夜更かしをしちゃいました。
もうすぐ夜が明けます。
湖の奥では満開の桜が、風に吹かれて揺れています。
湖は淡く色付き、花びらが舞うように、湖面がそっと光を届けます。
春。
あの季節、ぼくは毎日のように外へ遊びに出掛けました。
外では薄桃や赤や紫といった、鮮やかな草花が咲き乱れ、蝶々や蜜蜂が飛び回って、小さなお庭だけでも数えきれないほどの命が芽生えていました。
バッタを追いかけて転げ回ったり、小鳥を捕まえるために、茂みへ紛れ込む練習をしたり、くたびれてお家に帰ってからも、明日、何をして遊ぶかを考えながら眠るような毎日でした。
じっとしているとムズムズするような、いつもより浮かれてしまうような、変わった明るさを、春は持っていたんです。
だから、でしょうか。
ぼくはあの日、満天のお星様を見るまで、お日様が沈んだことにも気が付きませんでした。
あの日、朝早くから遊びに出かけたぼくは、庭の外に小さなトカゲがいるのを見つけました。
前に1度まいごになったことがあるぼくは、一人でお庭から出ないことを葉ちゃんに約束したはずでした。
だというのに、ちょろちょろ動くトカゲに我慢できなくなって、つい、飛び出してしまったんです。
大慌てで逃げ出すトカゲを、ぼくはお家がどんどん遠くなっていくのもお構いなしに追い続けました。
でも、トカゲはすばしこくて、結局は見失ってしまって。
少ししか走ってないと思っていたのに、気が付いたときには全く知らない景色になっていました。
道には誰の姿もなく、聞こえる音は目の前にある赤茶色の建物が吐き出すごうごうという音だけで、ぼくは少し怖くなりながら、
「葉ちゃんが心配してるだろうな」
とか、
「早く帰っておいしいご飯、食べたいな」
とか、いつも通りの夜を想像しながら、月明かりに照らされたじゃり道を早足に帰りました。
どれくらい歩いたのか、月が雲に隠れた時、ようやくぼくはお家の灯りを見つけました。
ほっと力が抜けて、走り出したその瞬間、、眩しい、光。
振り向く間もなく、体は宙に浮きました。
「……ラーン…‼フラ…チェ…コ…」
遠くから響く葉ちゃんの声に気がついて、ぼくは、ゆっくり走り始めました。
不思議と痛みはなく、いつもよりずっと体が軽くて、どんどん葉ちゃんの声に近づいていきます。とうとう見つけたその姿に、ぼくは加速して、加速して―――
―――「フランチェスコ‼」
葉ちゃんの叫び声が、ぼくの後ろへ走りすぎていって。
呼び止めようと振り返って、その時ようやく気が付いたんです。
葉ちゃんが、ぼくの名前を繰り返し呼びながら抱きかかえた小さな体。
葉ちゃんの腕からぐったりと力なく垂れる雉模様のしっぽ。
葉ちゃんの脇から覗く小さな足。
そこに居たのは、紛れもなくぼくでした。
何が起きたのか分からないまま、ぼくは座り込んでいる葉ちゃんの側へ行って、
「葉ちゃん」
と、声をかけました。
ぼくの声は届きません。
もう一度、
「葉ちゃん」
やっぱりこっちを向いてはくれません。
ぼくは、ふと、葉ちゃんに会えなくなる、ということを理解して、一つだけ言葉をかけてからその場を離れました。
そのとたん、ぼくはぐんぐん空高く昇り始めました。
今までの楽しかった思い出もぼくと一緒に舞い上がって、鮮やかな虹を描きます。
悲しくて、辛くて、涙が溢れて止まりませんでした。
このちっぽけな体の、どこにそんな涙が隠れていたんでしょう。
大声で叫んで、泣きわめいて、葉ちゃんの名前を何度も何度も呼びました。
葉ちゃん、ごめんなさい。
葉ちゃん、葉ちゃん、大好きだよ。
本当に____
「 ありがとう」
フランチェスコはそっとペンを置いて、窓に手を伸ばしました。
─────ザァッ──────
風は突然やってきて、びんせんを空高くへとさらっていきました。
手紙はやがて湖の深くまで、ふわりふわりと降りていきました。