古流武術の絶対不敗の極意
古流武術の絶対不敗の極意
(「対談 古神道と古流武術、大宮司郎・平上信行 著、八幡書店」より)
大宮 絶対不敗の境地というものは現代のスポーツ武道ではありえないことですね。不敗のまま去った柔道の山下選手などの例がありますが、やはりスポーツには引退というものがある。体力の頂点を究めた後、実力を維持することは大変なことです。
平上 古流武術の立場というものはスポーツ試合武道の感覚の如くには勝負ということを決して捉えません。両者は全く違った世界であると思います。
古流の武術というものは勝負ということを、その本質を本当に深く掘り下げます。勝負に勝つとは何なのか。負けるとは何なのか。それより先に試合とは一体何なのかと……。
大宮 現在の合気道は一部の例外を除いて、試合ということを否定していますが、古流武術においても、特に神道流系は試合を「死合(しあい)」であるとして忌み嫌い、避けたと聞いています。本当の武術の勝負というものはスポーツの試合的感覚で捉えてはいけないのかも知れません。
平上 それは全く違うものであると思います。人と争えば技術の優劣がそこに如実に現れると一般の方は安易に思われるかも知れない。しかし本当にそうでしょうか。敵と生死を賭けて戦うということはルール試合の勝負と同じに考えてよいものでしょうか。いやそこには今少し精神的な部分が介入するのではないでしょうか……。
それは武術の実戦の立場において、何ゆえに敵を倒すのか、また何ゆえに敵が自分に攻めて来るのかという深い部分の考察が必要なはずです……。
大宮 スポーツ競技ではお互いが虚実を尽くしての攻防を競うわけですが、生死をかけた実戦の場というものは、全く競技試合とは異質のものであるといえるかも知れません。
平上 武術の勝負において、超越的な立場の絶対不敗の方法論を構築した先達、植芝盛平翁以前にも同様の極意は既に江戸期以前において醸成されておりました。日本の武の先達はあらゆる技法を編みながらも、また考えたのです。弱いものには勝っても、より巧妙な術と力を持つ者には破れる。また理外の理による勝敗という不確定因子が働く中で、単なる所作比べではなく絶対に勝利を得る方法は果たしてないものであろうかと……。
大宮 その思考の解答はかつての古流武術の中に既に存在したのでしょうか。
平上 絶対に勝つ極意。それは色々な局面がありますが、日本の古流柔術としては二方向のあり方として存在しています。一つは大東流を含めた合気系柔術の流れの中において、いま一つは伝統的古流の奥伝部分としてですが、一つの範例として柳生心眼流の立場があります……。
大宮 大東流と心眼流、両極端の二大日本古流の奥伝部分の話をより深く伺いたいと思います。