見出し画像

私が習った合気道…それは普通の合気道ではなかったのです😲


前書き

私は、かつて合気道を習いました。それも二つの合気道を…
そして、その二つの合気道は普通の合気道ではなかったのです😲

一つ目の合気道

柔道に行き詰まる

私が高校2年生の時です。その頃は、中学、高校と部活で柔道をやっていたにもかかわず、その柔道が上手くも強くもならない状態だったので、南郷継正氏の「武道の理論」という本を買って、何とかスランプ状態を抜け出そうと思い、貪るように何回も読み返しました。その結果、柔道には武器としての技を創るための形稽古がないことを認識し、形稽古のある合気道と空手をすることに決めました。そのことによって、形と乱取りの関係性を掴もうと思ったわけです。

通信教育で合気道と空手を始める

でも、どちらも近くに道場もないし、部活と勉強で忙しいし、道場があったとしても通う時間もお金もないし、というわけで当時たまたまあった合気道と空手の通信教育を受けることにしました。空手の通信教育は東京の剛柔流の泉武館というところがやっていました。教程を終えるごとにレポートを送るわけですが、添削らしい添削もなく、質問をしても、いつも同じ説明プリントが送られてくるだけでした。でも、一応最後まで教程を終了して、4級の免状をもらいました。

※空手通信教育の教材一式です。

富木合気道との出会い

合気道の通信教育は、ある大手の出版社が主催していて、指導者はその当時富木合気道五段(柔道も五段)の三宅綱子先生とういう方で、武道界では有名な女性武道家でした。この合気道の通信教育も基本的には家で練習するのですが、合気道の場合には空手と違って相手が必要ですので、3つ年下の弟を相手に練習していました。そして、その合気道の通信教育では、毎月1回のスクーリングがあって、私は当時住んでいた房総半島の南端の町からスクーリング会場である東京の神田神保町のYMCA体育館に、片道3時間以上かけて通いました。講師の三宅綱子先生は、とても綺麗な方でした👏

※下のURLをクリックするとその当時の合気道通信教育のテキストをみることができます。但し、全6巻のうちの第1巻だけですが…

https://www.aikidosangenkai.org/downloads/tomiki-goshinjutsu/gendai-aiki-vol-1.pdf

富木合気道とは

ここで、富木合気道について少しお話しさせていただきます。特に、なぜ富木合気道が普通でないのかについて😬

「富木合気道」とは、富木謙治師範(1900−1979)が合気道を体育学的に編成した教育システムです。その特徴は大きく「乱取り」と「形」(約束稽古)の練習方法を併修する点にあります。柔道における「乱取り」は互いに襟袖をもって組み合い、投技と固技によって実力を養うものですが、富木合気道における「乱取り」は互いに離れた状態、特に当身技が届く/届かないといった、剣道に云う「一足一刀」のぎりぎりの位置から、当身技と関節技を錬磨しあう点に特徴があります。また富木合気道における「形」とは、制定された形を基盤に、その応用を実用性の観点から稽古することで「武心」を養い、人格の形成を図る体育的身体活動です。

上記の解説でお分かりのように、富木合気道には、「乱取り練習」があります。また、「形」も実用性の観点から稽古するというのが、普通の合気道と違う点です。これが富木合気道が普通でない理由です。

合気道の通信教育の終了

そうこうするうちに、1年ほど経ち、通信教育の主催者から「近々、『現代合気の会』の通信教育を終了することになりました」という旨の連絡があり、最後のスクーリングの日に、主催者である出版社による取材を兼ねた会食が都内のホテルのレストランで行われて、その際に参加者に級位の免状が渡されました。免状は初級、中級、上級があり、私は上級の免状をいただきました。通信教育ではありますが、一応、合気道や空手の初級段階は終了しました。しかし、肝心の柔道の部活では形稽古がないので、相変わらず上達はしませんでした。毎日の柔道の稽古は主に乱取りで、それも乱取りという名の「喧嘩」のような稽古でした。その結果、期せずして喧嘩は強くなったと思います🤨 これは、数年後に路上においてその片鱗を示すことになります😤

今、思うと合気道の通信教育のスクーリングで、柔道も五段の先生に教わったのに、「柔道が強くなる方法」を質問しなかったことを悔やみました。

柔道の達人に出会う

高校2年の柔道部の夏合宿で、他の高校に柔道部全員で出稽古に行った時、そこに東京教育大学の柔道部も稽古に参加していて、私は乱取り稽古の際に、東京教育大学の柔道部師範に指名されて、その師範と乱取りの稽古をすることになりました。そうしたら、その師範の柔道がいつもやっている「喧嘩柔道」とは全然違うのです。なんと言ったらいいか、空気を相手にしているような、全く存在感のないような感じで、その師範が私の柔道着を握る圧力がほとんど感じられなかったのです。しかし、その師範は自由自在に動いて、体捌きで私を崩し、いつの間にか私は投げれているのです。何十回も投げられました。終いには、肩車や隅落とし(別名:空気投げ)という大技をかけられて、師範との乱取りは蝶々のように舞っているだけでした(これを柔道用語で「バタフライ」と言います)。それを見ていた私の柔道部の顧問から「何やってんだ!」とお叱りを受けました。でも、私は、その師範との乱取りで、「ああ、これが本当の柔よく剛を制す柔道なんだ」と感動しました。その後、大学や自衛隊でも柔道をしましたが、東京教育大学の柔道部師範のような方には二度と巡り会うことができませんでした。

しかし、柔道ではその後達人には出会いませんでしたが、二つ目の合気道では、その柔道の達人よりもっとすごい達人に出会うことになります。

※ 私も下の動画のように、柳に風的な柔道でポンポン投げられました。

二つ目の合気道

ストリートファイト

高校卒業後、大学に入学しましたが事情により1年で中退し、その後、期するところがあり海上自衛隊に入隊しました。大学、自衛隊でも柔道をしましたが、相変わらずの「喧嘩柔道」でした。ただ、違うのは、さらに喧嘩度が増した点です。そのせいかどうかわかりませんが、高校卒業後の約3年間で2回も骨折しました。

自衛隊に入って「地獄の訓練」と言われる教育訓練が終わると実施部隊に配属されます。その配属後すぐに、その後の私の運命を左右するような出来事が起きました。

自衛隊の課業終了後、友達と二人で町に出かけた時のことです。二人で夕暮れ時の人がいない公園でたたずんでいると、どこからか5、6人のヤンキー風の連中がやってきて私たち二人の腕を抱えて公園の外に連れ出そうとしたのです。私は、友達に「逃げろー!」と叫びました。その時、そのヤンキーの内の一人が私の襟をつかみ、殴りかかってきました。私は、薄暗い中で相手のパンチがよく見えなかったことと、柔道では喧嘩のような練習をしていましたが、殴る蹴るに対する練習はやっていないので、反射的によけることができずに、そのパンチを顔面に喰らいました。それで、思わず頭に来て、瞬間的に相手の襟と袖をつかんで、柔道の「支釣り込み足」という技で相手を空中に放り投げ地面に叩きつけました。すると、その仲間がウワーッと一斉に5、6人が一度に寄って来て、殴る蹴るのボコボコ状態にされましたが、近隣の人が通報したのか、すぐにパトカーがやってきました。ヤンキー風の連中は一人残らず逃げてゆきました。私と友達だけがその場に残ったので、パトカーに乗せられて警察署に連れて行かれました。そこでは、私たちは被害者であるにもかかわらず、犯人扱いのような取り調べを受けて憤慨しました。

ストリートファイトの反省

警察から基地の警務隊に連絡があり、私たち二人はそこでも事情聴取されました。ただ、警察と違ったのは、私たちが被害者であったと言うことがその時点でわかっていたこと、および警務隊が同じ自衛官であり身内ということで扱いは丁寧だったことです。

警務隊とは、自衛隊内の警察的な役割を果たす部署です。 自衛隊内での犯罪などの捜査にあたります。 所属する自衛官は警務官(曹以上)もしくは警務官補(士長以下)と呼ばれ、刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)の規定による司法警察員(特別司法警察職員)とされ逮捕権を持ちます。

こんな経験は、もう二度としたくないと思い一人反省しました。まず、なぜこんな目にあったのか。列挙すると次の通りです。
・夕暮れ時の人の気配のない所に友達と二人だけでいた。
・ヤンキー風の連中が5、6人も近づいて来たのに気がつかなかった。
・その日に限って踵の高い靴を履いていたので、自由に動けなかった。踵の低い靴で、かつ運動靴を履いていたらあと2、3人あるいは全員投げ飛ばしていたかもしれない…私の「喧嘩柔道」なら😄
・柔道では、相手の殴る蹴る、武器を持っての攻撃、多人数での攻撃に対処するのは難しい。
・相手が武器を持っていなかったのが不幸中の幸いであった。
・一人だったら逃げられたかもしれない。二人以上の時は逃げるのが難しいので戦うしかないのかも。しかし、相手が武器を持っていたら対処が難しい。

以上のことを考えたら、対打撃(殴る蹴る)、対武器、対多人数でも対応できる武道・武術・護身術を身につけるしかないと、未熟な頭で考えました。色々調べたところ、「合気道」が、対打撃、対武器、対多人数を想定している武道であることがわかりました。

合気道の道場を探す

高校時代に「富木合気道」をやっていましたが、それは通信教育であり、
それはあくまでもスポーツとして柔道の参考としか考えていなかったので、それがすぐに命のやり取りとしての合気道には結びつきませんでした。それに「現代合気の会」はもう解散していましたし…

それで、「命のやり取りを前提とした」武道としての合気道の道場を探すことにしました。あちこち探し回りました。近くにはなかったので、電車で1、2時間もかかる所にある合気道の道場にも行きましたが、どこも武道・武術・護身術としての合気道ではありませんでした。まるで踊りのように見えました。

探していた合気道の道場に巡り合う

月日が流れ、あのストリートファイトから1、2年経った頃でした。地元の地方新聞に合気道道場開設の広告が出ました。コレです:

文字通り、武術・護身術の道場といった趣きの広告文です。それも基地のすぐ近くに新しく開設された合気道の道場ですし、指導者は戦前の合気道の師範代で海軍大学校や憲兵隊で軍人に実戦的な合気道を教えた猛者であり、合気道創始者の植芝盛平翁の戦前の内弟子だった経歴を持つ人物です。この新聞広告を見る限りでは私の探していた合気道の道場であり、指導者のようです。新聞の広告を見た翌日にその道場を訪ねました。

その道場の玄関には、「植芝流合気道館山支部道場」という大きな看板がかかっていました。事前に道場を訪ねる旨の電話をしていたので、その合気道の先生は待っていてくれました。そこに居たのは、道着と袴に身を包んだ、70歳前後の老人でした。背はそんなに高くなく、どっしりとした体格です。いかにも武道家という風格を醸し出していました。道場に上がり、その先生のお話を伺い、実際に手を取り合気道の技をかけてもらったりしました。その結果、その道場と指導者が希望通りであったので、即日入門しました。

合気道漬けの毎日

入門してからは、これで武術・護身術としての合気道が習えるという幸せな気分でした。そして、「合気道漬け」の日々が始まったのです。

道場は休みなしで週7日間開いていました。しかし、私は自衛官で、その頃は基地に一日当直して、次の日は課業終了後に外出が出来ましたので、道場には1日置きに通っていました。

その道場は新しく開設したばかりで、私以外にはまだ門下生がいないので、自衛官の友達を入門させ、稽古相手になってもらいました。しばらくすると一人二人と少しずつ入門する人が増えて来ました。ほとんどの人が武道は初めての人ばかりです。

私は1日置きの道場通いでしたが、基地内に剣道場と柔道場があったので、当直で道場に通えない日は、課業終了後にそこで一人稽古をしていました。3時間は稽古しました。休日には1日6時間の一人稽古をしました。

例えば、木刀または居合刀で素振り1000回、受身を500回、サンドバックを相手に入身突きを500回および徒手で入身1000回、転換1000回、木刀および徒手による合気道の形を1000回行いました。その後、バーベルとダンベルで筋トレを30分して終わりです。かなりハードだったことを憶えています。

道場での稽古

道場での稽古は、自衛官の私にとっては体力的にはそれほどキツいものではありませんでした。むしろ基地内での一人稽古の方がキツかったです。一緒に通っている自衛官の友達も同じように別にキツそうではありませんでした。自衛官はかなり厳しい訓練を受けているからです。しかし、一般の方にとってはかなり激しい稽古のようでした。そんな激しい稽古を見て、本部道場では私たちの道場を「地獄道場」と呼んでいました。

どんな稽古かというと、まず準備運動代わりに木剣による素振りを10分くらいします。その後、二人一組になって座っての呼吸力養成のための技を交互に行い、その後座り技を何種類か行います。その際は、技を施す前に必ず当身を入れます。

その後立技に移ります。立技でも相手が殴って来た場合や蹴って来た場合、入身で捌いて相手の攻撃を受け流すと同時に当身を入れます。また、当身を入れたまま相手を投げ倒すこともあります。この場合は、当身とも投げとも区別がつきません。だから、道場で行われた技には多くの場合、名称がないものが多かったです。また、当身を入れる場合は、先生から「軽くでいいから相手に当てなさい」と言われました。まあ、顔面と金的は別ですが…

関節技を施すときは、相手を床に這わせた後、その肩を足で踏みつけ肩関節をはずように極めたりします。(実際にははずさず、ギリギリで止めます)

関節を取ったまま相手を床に這わせるようにして技を極める場合(例えば、一教取りの裏技など)は、先生から「相手をホウキ🧹だと思って、相手の鼻で畳を掃くようにしなさい」とよく言われました。

関節技を施した時には相手に逃げられないようにするためにその関節を壊すようなやり方も教わりました。もちろん稽古においては壊しませんが、ギリギリのところで止めます。

その他には短刀取りや太刀取り。太刀取りは、木刀だけでなく居合刀による太刀取りも行いました。但し、これは上級者向けです。それと私たちが自衛官なので木銃取りの稽古も行いました。このような技は、戦前、軍人を対象として盛んに行われたと思われます。

女子が男子を相手に稽古するときは、道場長から女子に対して「絶対に手を抜くな、全力で男子を倒すこと」という指示があり、男子は受け身をしても後頭部を打つこともありました。だから怖かったですね、女子を相手に稽古するのが…(戦前の合気道の技は、本来的に受け身ができないように作られているとも言われているようですが…だから全力でやったら危険ですよ⚠️)

当身専門の稽古もしました。上段突き受流入身突き、上段突き受流手刀水平打ち入身投げ、中段突き受け流し入身突き、正面当て、下段当て、後ろ当て、前蹴りに対する掬い受け崩し入身突き、その他多くの当身技および当身だけで倒す技があります。当身だけで倒す技、つまり一撃必倒の技については当身を相手に入れたときに、自分の拳骨および手首を痛めないようにするために「拳固め」の方法も教わりました。また当身の稽古をするときに実際に相手に当身を当てる稽古もしました。その時は、受けを取る側は剣道の防具を身につけました。もうこうなると普通の合気道ではないですよね😱

稽古の最後には、立って呼吸力養成法を行います。これは片手を相手に両手で力一杯に持ってもらい、それを挙げる稽古です。これを行うと両手で力一杯持つので握力が、私の場合44kgが78kgになりました(このためかどうかわかりませんが、道場には握力計が備えてありました)。また、呼吸力が身につくと形の稽古のときに相手に力一杯持たれても平気で技を施すことができるようになります。また、この稽古をすると握られた手首の辺りの体毛がかなり濃くなってきます。体毛の薄い人でも手首の体毛だけ濃くなってきます🧐

基本的に、稽古をする時は、相手にガッチリとしっかり持ってもらって技をかけていました。普通の合気道道場のように「流れの稽古」といわれるような稽古はほとんどしませんでした。いわゆる「固い稽古」でした。このような稽古をやると常に臍下丹田に力を入れた状態になり、呼吸力を使って技をかけていたように思います。これは普通の合気道の道場生にもお勧めしたい稽古ですね😉

いわゆる普通の合気道の道場では行わないような技がほとんどだったと思われます。だから、時たま普通の合気道の道場でビジターとして稽古した時などは、私の掛ける技はほとんど全部と言っていいほどそこの師範や指導員に訂正されました。そんな時、戦前の合気道と戦後の合気道ではこんなに違うんだと痛感させられました。だから、普通の合気道道場ではもう稽古しないことにしました。

昇段

「地獄道場」の稽古が1年を迎えた頃、同じ時期に入門した道場生は昇段しました。私以外は皆初段でしたが、私は初段を飛び越えて、いきなり二段に昇段しました。

1年で初段に昇段というのは早いと思われるかもしれませんが、植芝流合気道館山支部道場と普通の道場では、稽古量が全然違います。道場は毎日開いていますので、練習したい人は毎日稽古できます。普通の道場では週に2日くらいの稽古のようですが…

私の場合は、1日置きでしたが、道場に来ないときは、基地内で例の一回3時間、休日は6時間の「地獄の一人稽古」および8ミリ映写機を使っての「見取り稽古」をしてましたので、道場長はそれも加味しての飛び級の昇段だったようです。

他の人がやっていない稽古として「見取り稽古」を私はやってました。これは、当時は今のようにビデオなどありませんでしたから8ミリ映写機で、達人クラスの、それも戦前派かそれに近い合気道師範の演武の8ミリフィルムを何千回と見て、それを目に焼き付けました。これが私の「見取り稽古」です。これはかなりの効果があったと思います。おすすめです。

二段になって9ヶ月後のある日、道場で先生から突然私だけに「今から三段の昇段審査をするから」と言われ、あまりに急なことなのでちょっとドギマギしましたが、無事昇段審査を終えて三段を授与されることになりました。

入門して一年9ヶ月での三段昇段は異例なことだそうです。普通の合気道道場では、三段を取るのに早くて7年、普通で10年以上はかかるそうです。

やはり、あの異常なまでの一人稽古が功を奏したのではないでしょうか。あと考えられることは、先生の「普通の道場では教えない実戦的な技」を自衛官の忍耐と体力でこなしたということと、もう「あのストリートファイトのような目に遭いたくない」という執念が「地獄道場」の稽古に駆り立てた結果であると思われます。

道場長の急逝

三段を取って、順風満帆と思っていた矢先、道場長が亡くなったのです。
突然のことで、道場生は皆驚きと悲しみで落胆しました。私などは、あと数ヶ月で自衛隊を退職する時期を迎え、退職後は合気道の専門家にでもなろうかと思っていたので、その支えになる人を失って茫然自失という感じでした。

道場は、道場長のまだ20代半ばの息子さんが道場を継ぐことになりました。しかし、その息子さんはほとんど合気道の経験がないので、本部道場から先生が派遣されての稽古となったようです。私は、道場長が亡くなった後は、自衛隊退職の準備のためほとんど道場には行かなくなりました。

帽、振れー!

道場長が亡くなられたのが12月8日の終戦記念日でした。それから4ヶ月後の4月1日が私の自衛隊退職日でした。その日は、正門の前に在隊自衛官が集まり、退職する自衛官(その時は私一人でしたが)に対して、別れの儀式である「帽、振れー!」が行われました。私が正門を出るときに大勢の自衛官(50人〜100人位)が、軍艦マーチ(海上自衛隊なので)をBGMにして、被っている帽子を取り「帽、振れー!」を行ってくれました。正門を出て後を振り向くと、東京湾の向こうに美しい富士山が見えていました。

後書き

道場長と富木先生の関係

因みに、富木合気道の創始者である富木謙治先生と道場長は、同じく植芝盛平翁の内弟子であり、また道場長と富木先生の奥様が同郷ということもあって親しい間柄でした。

道場長の内弟子の一年後輩は塩田剛三

道場長であった鈴木良助七段は、戦前の昭和6年(1931年)に植芝盛平翁の内弟子となりました。一年後輩には、あの有名な塩田剛三先生がいます。

「植芝盛平伝」に載った道場長

その頃、道場長は怪力で有名だったようで、「植芝盛平伝」にも道場長が
200kg以上😲の重さのある石を肩に担いで運んだというような記述がありました。(道場で実際に道場長から「植芝盛平伝」を直に見せてもらいました)

戦時中の道場長

また戦時中は満州で陸軍の特務機関員として従軍されたとのことでした。
道場で稽古が終わったあと、道場長自らお盆にお茶を入れた急須とお茶の友の漬物と人数分の茶碗を運んできて、道場生皆で道場長を囲んでお茶を飲みながら、戦争中に道場長が従軍された頃の話をよく聞きました。白兵戦では植芝盛平翁から教わった合気道の入身転換で何回も命を救われたそうです。

道場長の思い出の言葉

それと、道場長がよく口にされた言葉を思い出します:
「合気道は九割が当身ですよ!」
「女子は男子と稽古するときは思い切り全力で技をかけなさい!」
「相手が武器を持って攻撃してきたら容赦するな!」

太極拳家との手合わせ

私が所属していた隊の自衛官に太極拳家がいて、私が合気道をやっていると知り、是非手合わせして欲しいとの要望があったので、渋々了承して手合わせすることになりました。場所は、芝生のある空き地でした。以下は、その太極拳家との手合わせの一部始終です。

太極拳家と対峙した時、相手はすかさず右足の前蹴りを放ってきました。私は左に入身、つまり相手の攻撃線を外しつつ左斜め前に体を躱しながら、左手で相手の蹴ってきた右足を掬うようにして上げ崩し、その右足を右肩に乗せるような感じで、同時に右手で下から相手の顎に掌底で当身を入れ、そのまま右手で顎を押し続け、相手の顔を仰向けにし、右足を大きく相手の後ろに踏み込むと同時に、相手の腰の辺りに左手刀を入れながら、そのまま後ろに投げ倒しました。手合わせに要した時間はわずか2秒ほどでした。また下は芝生なのでその太極拳家は怪我などしませんでしたが… 
上記の手合わせは、大体次の動画のような感じです。細かいところはちょっと違いますが…


このような事も含め、普通ではなかった2年間の「植芝流合気道館山支部道場」の記憶が本当に懐かしく思い出されます。

付記

合気道の形成過程に関する研究:海軍大将竹下勇関係文書を中心に

研究代表者:志々田 文明
早稲田大学・スポーツ科学学術院・教授

竹下勇日記および「乾」の巻解読によって以下の事実が明らかになった。

1)植芝盛平が1926年、1927年頃において指導した武術名は大東流柔術であった。以後1928年に相生流合気柔術、1929年に合気武術、1933年頃には合気武道へと変遷した。

2)1930年頃から柔道、剣道、唐手等の著名な武術家の竹下勇訪問があり、植芝の武術への他武術の影響が示唆された。

3)1635手の技術があり、66の格闘形態が想定されていた。その七割強が相手に組み付かれた状態、組みつこうとしたときが想定されていた。

4)植芝の武術はかなり実戦・実用的なものと理解された。

まとめ


ここまで読んで来られた方は、私が「普通の合気道」を批判していると思われたかもしれませんが、そんなことはありません。

『合気道は相手といたずらに強弱を競いません。入身と転換の体捌きと呼吸力から生まれる技によって、お互いに切磋琢磨し合って稽古を積み重ね、心身の錬成を図るのを目的としています。また、合気道は他人と優劣を競うことをしないため、試合や競技を行ないません。稽古を積み重ねていく中でお互いを尊重し、和合の心を学ぶことが出来る武道と言えるでしょう。』

上記のような「合気道の理念」に賛同し、また共感も覚えます。ただ、私が合気道を始めようと思ったきっかけが、暴漢に襲われ暴力を振るわれて命の危険に晒されたからです。そして、もうそのようなことに巻き込まれないようにするために、武術・護身術として実戦・実用的な「戦前の合気道」の道場に入門しました。

ですので、心身の錬成や和合の心を学ぶ以前に、「相手を殺さず、自分も殺されず、戦いを収める」ことを優先します。合気道を学んでも暴漢に襲われ殺されてしまったら何にもなりません。まず身を護れること、それから心身の錬成や和合の心を学ぶことが肝心ではないかと考えます。これは、私の命が危険に晒された経験から出した結論です。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?