月曜日の図書館46 どこにでもあるスコーン
海鮮丼を食べながら本を読んでいた。確か梨木香歩さんの本だったと思う。
食べ進めてしばらくすると、カウンター越しに店主が話しかけてきた。ふだん何をして過ごしてるんですか。そうやって本ばっかり読んでるんですか。テレビとか何を観ますか。
家にテレビはない、と言うと、軽蔑したような表情になり、え、じゃあ××が離婚したことももしかして知らないんですか、とたたみかけてくる。有名人らしいが名前すら知らない。今世の中その話で持ちきりですよ。
海鮮丼の鮮度が3割くらい落ちる。
その後も店主は、テレビを観ないなんてありえない、本なんか読んで何が楽しいのか、前にも図書館に勤めている人が食べに来たがあんたと似たような感じだった、と本およびその周辺をディスりつづける。ついでにわたしが近所のおいしい焼き菓子屋さんの包みを持っているのを見つけ、あの店のどこがいいのかわからない、食べてみたがどこにでもあるスコーンだった、あんなに並ぶ理由がわからない、とよどみなく切り捨てつづける。
なんて注文の多い、もとい否定の多い料理店なのだろう。わたしとあなたの間には、海鮮が好き、といううれしい共通点があるのに、なぜ違うところにばかりめくじらを立て、なおかつそれを渾身の力で否定するのか。
何年かして久しぶりにその店の前を通ったら、○○接骨院という看板が出ていた。焼き菓子のお店は相変わらず開店と同時に行かないと、すぐ売り切れてしまう。
感染を避けたいためか、図書館に来ずに、メールで調べ物の依頼をしてくる人が増えている。件数をカウントしている欄が、今の時点で去年一年分をゆうゆうとはみ出している。
市の各部署からの依頼も多い。電話を受けたDが事務室まで案件を伝えにくる。後から本人も来館してくわしく相談したいとのこと。
すごく良い人だった、と力説する。図書館の男子にはいないタイプの良さを持つ人だった。
T野さんが、どういう意味で?わたしたちに足りないものとは?と聞くと、野球でいうところのキャッチャーみたいな人だった、とややこしい表現を使う。野球に熱心な人がその場に誰もいないので、みんなぽかんとしている。
相談しに来た件の人を陰からこっそり見ると、数年前に図書館見学ツアーをやったとき、ゲストとしてしゃべってもらうはずだったのに遅刻してきて予定をめちゃめちゃにした人だった。確かに図書館にはいないタイプだが、良い人かどうかは十分慎重に見極める必要があると思った。
感染を恐れない来館型の利用者もこのところなぜか勢いづいている。交代の時間に行ってみると、カウンターは革命でも起きたのかと思うくらい混沌としていた。返却された住宅地図が積み上げられ、えんぴつは散乱し、「となりの窓口へ」の看板がひっくり返っている。ただでさえ骨と皮だけのS村さんの身体ごしに、後ろの本棚が透けて見えた。よろけながら事務室に戻って行く。
えんぴつはアルコールで消毒してえんぴつ立てへ。看板はしまい、地図はブックトラックにきちんと積んで廊下に出す。しばしの間、利用者除けのまじないを唱えながら、わたしはカウンターの秩序を取り戻してゆく。
もう冬が近いというのに、換気のために扇風機は今も回しっぱなしだ。トイレから出てきたおじさんが、洗った手を乾かすために、扇風機に手をかざしている。その後ろにある大きな窓からは、はっとするほど紅葉したもみじの木が見える。
海鮮丼の店主のディスりを聞いたとき、これは中高生のときと同じたぐいのものだ、と思った。本が好きな生徒は真面目とかガリ勉だと言われて、なぜか仲間はずれにされていた。わたしは隠れキリシタンみたいに、学校では絶対本の話をしないようにした。あのときせせら笑っていた子たちは、どんな大人になっているのだろう。今も同じように、浅い考えで他人を否定しているだろうか。
本なんか、と言葉にしてしまうと、途端に世界がきゅっと狭まってしまう。自分が信じる「ふつう」にひびが入ったとき、こんな生き方もあるよ、と差し伸べてくれる手を、本なんか、の一言が、遠ざけてしまっているような気がしてならないのだ。