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月曜日の図書館40 くるくる

S村さんからヤモリの干物をもらう。書庫の中で干からびていたらしい。非常に状態がよい。
そのまま机の上に飾っておくと、回覧物の下敷きになること必至なので、持って帰ることにする。会議の報告書やメールの内容、知っておくべき分厚い辞典類など、日々さまざまな回覧物がみんなの机を行き交う。ちょっと後でゆっくり見ようなどと考えていたら、たちまち別なものが積み重ねられて身動きできなくなる。司書たるもの、情報の波にのまれてはいけない。仕事で培った勘と経験によって、すばやく内容を把握する、もしく内容にあまり立ち入らずにとなりの机へ回すのがよい。わたしのように瞬発力と反射反応だけでその動作を続けると、後で痛い目に遭うので、見習わない方がよい。

虫が嫌いな後輩の子が「ダンゴムシの写真が載っている本を見たい」という相談を受けている。棚から持ってきた本を差し出して、代わりに中身を確認してくれと言う。ダンゴムシの赤ちゃんたちが、親のおなかの中でわしゃわしゃと群れている。

その子におすすめのマンガを貸してとおねがいしたら、ナウシカを渡された。

持って帰ったヤモリは、木のケースに入れて標本のように飾ってみた。我ながらいい出来栄えである。これはぜひ多くの人に見てもらいたいが、ダンゴムシもヤモリも、嫌いな人には深刻なダメージを及ぼしかねないのでなかなか難しい。
前にLちゃんと動物園に行ったとき、両生類は虫類ゾーンの入り口で突如「わたしあっちで休憩してる」と離れていった。疲れたのだろうと軽く考えたわたしは、その後一時間近くを費やし、カエルやヘビを堪能した。
わたしに遠慮して、嫌いと言い出せなかったのだ。察しないことにかけては他の追随を許さないわたしは、来ればよかったのに、めっちゃかわいかったよ、などと興奮気味にしゃべり続けた。Lちゃんは反論せず、遠い目をして笑っていた。

でも、わたしも猫の写真など見せられたときにはメッチャカワイイネと言うようにしているので、おあいこである。

カウンターに紙切れが放置してある。第六感がびびと働き、裏返してみると、わたしが書いた回覧用紙だった。紹介したいフリーペーパーといっしょに事務室で回覧していたはずが、紙だけ打ち捨てられている。「すさまじいおじいさんおばあさんが出てきます☺︎」。職員の半数は名前の下にチェックがついているので、残りの半数の中にうっかり犯がいるわけだ。そして本体はどこへ。

ナウシカの世界は、そっと生きさせてくれない。誰もが望んでいない争いに引っ張り出されて、世界を汚した罰だと言って虫や胞子や巨神兵にやっつけられる。人間も種のひとつでしかない。わたしだけが違う生き方をすることは許されない。にも関わらずみんな自分のことしか考えていない。そして、そんな欲望にとらわれていないナウシカには、魅力も人間味も感じられない。

Lちゃんの机の上には、腐海の森が広がっている。ひとつひとつの回覧物に誠実に対峙しようとした結果、もはや優先順位がつかないほど堆積し、ときどき崩れ落ちては積み上げられ、もはや地層の年代すらあやふやになっている。
その混沌の中に、心地よさのようなものを感じるのはなぜだろう。わたしたちは美しい机と引き替えに、何か大切なものを失ってはいないだろうか。

回覧用紙のチェック欄は個性が出て楽しい。ただチェックをつけるだけの人もいれば、一言コメントを書く人や、字が汚すぎて判読できない一言コメントを書く人もいる。わたしは「もうすこしがんばりましょう」と書かれたオタマジャクシのスタンプを押そうと思って持ってきたが、チェック欄が小さくて叶わなかった。

例のフリーペーパーは腐海の森の奥深くに埋もれていると推察している。毎回「ありがとうございます」とていねいにコメントを書くLちゃんのチェック欄は、まだ空白のままだ。

そのまま幾年も寝かせて、清浄な光と水とほこりになるまで待つべきかもしれないと、少し躊躇している。

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